2020年5月15日更新

第7回 カウナス(リトアニア)と杉原千畝

杉原千畝
リトアニア第二の都市カウナス。現在の首都はヴィリニュスですが、その前の臨時の首都として栄えていたのがカウナスです。日本人の私たちにとって、この街が有名なのは、「杉原千畝」の存在です。

1900年1月1日、岐阜県八百津町生まれ。早稲田大学高等師範部英語科を中退後、外務省の留学生としてハルビンでロシア語を学んだ後、外務省に入省。満州、フィンランドなどでの勤務を経て、第二次世界大戦の最中1939年にリトアニアの日本領事館に領事代理として赴任しました。

1940年夏、日本領事館の前に多くの難民たちが押し寄せます。ポーランドなど欧州各地を追われ逃れてきた大勢のユダヤ人でした。
日本を経由して第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきたのです。当時の日本外務省は、「正規の手続きができない者に、ビザを出してはいけない」というものでしたが、命の危機が迫るユダヤ人に対し苦悩の末ビザは発給する決心をします。とにかく、ユダヤ人が生きていくためにかける限りのビザを発行しました。朝起きてから夜寝るまで、食事の時間をも惜しみ、そしてカウナスを出発する最後の列車の中でも必死に書き続け、その数は記録に残っている数で2139通、1家族につき1枚あればよかったことからこの命のビザによって約6000人の命が救われたとされています。
旧日本領事館
実際に使用されたデスク
その後、チェコ、ルーマニアなどで勤務し、1946年に帰国。
翌年、外務省の命令を背いたとのことで外務省を退職に追い込まれました。外務省の方針は、一外交官官が、本省の命令に背いたという事実によって、6000人のユダヤ人を助けたことよりも、規律違反の方が大事であったということです。

その後、ユダヤ人たちは日本を通過し世界各国で安全な暮らしを取り戻し、杉原は1985年イスラエルにて「自らの犠牲を顧みずにユダヤ人を助けてくれた異邦人に贈る」という「ヤド・バシェム賞」が贈られました。翌1986年7月31日に86歳という人生を閉じました。 杉原は亡くなる前に、夫人の幸子に「私のしたことは外交官として間違っていたかもしれない。しかし、私は頼ってきた人たちを見殺しにすることはできなかった」と語っています。
国籍を超え、同じ人間として勇気と正義を貫いた杉原千畝。リトアニア・カウナスには各地で杉原千畝の功績をたたえるプレートを見ることができます。

次回はメキシコシティ(メキシコ)とディエゴ・リベラを予定しております。
お楽しみに!

次回更新予定:5月22日(金)

藤沢営業所所長:近 博之
 
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