2016年12月7日更新

海洋ロマンを刺激する帆船、その歴史を辿って(後編)

ヴァイキング船からハンザ・コッゲ船へ

北海やバルト海をその舞台としていたヴァイキングとは8~11世紀頃、スカンジナビア半島やデンマークを拠点としてヨーロッパ各地へ侵攻、海賊行為を繰り返したゲルマン系ノルマン人の別称です。彼らは荒々しい北の海を我が庭のごとく航行し、交易や植民、建国を行ったほか、傭兵としても活動していました。ヴァイキング船の特徴は、1本マストで船の外板に一枚一枚の板が重なるように張り合わせる鎧張りが使われていたことでした。そして、船首と船尾が同じ形をしていて上に大きく持ち上がり、舵は右舷側にあって、船底中央部分にキール(竜骨)を配して多数の肋骨のようなフレームとこれに梁(ビーム)を組み合わせて骨格が造られていました。比較的小さな船だったようで、甲板はなく、1本マストに横帆、櫂(オール)を使っていました。

やがてヴァイキングの活動が衰退し、次いで北の海を制したのはハンザ都市でした。12世紀後半から16世紀にかけて、北欧商業圏を支配したハンザ同盟は、経済的に利害の一致する都市が協力、団結した都市連合で、リューベックやハンブルク、ブレーメンなど北海沿岸やバルト海沿岸の諸都市が参加していました。ハンザ都市が大いに利用したのがコッゲ(コグ)船です。これまで数隻のコッゲ船が発掘され、ドイツ・ブレーマーハーフェンなどの船の博物館に収蔵されています。1本マストに横帆を取り付け、甲板と船楼(船の上甲板の上にある構造物)を持ち、舵が船尾に取り付けられたコッゲ船はヴァイキング船の流れを汲むだけでなく、南方船との結びつきも見られます。ちなみに、コッゲ船の一日の航海距離は60~80キロメートルと限られていたため、この距離に合わせてバルト海沿いのヴィズマールなど諸都市が築かれました。

冒頭でふれた帆船パレード「ハンザ・セイル・ロストック」が行われるロストックは、かつてハンザ都市として栄えた町のひとつです。旧市街はヴァルノウ川河口から15キロメートルほど遡った辺りに開け、今も市城壁の一部が残されています。ロストック発祥の地、旧マルクト広場の聖ペトリ教会、旧市街の中心にある聖マリエン教会、その近くにあるバロックのファサードを持つゴシック様式の市庁舎とその7つの尖塔は、この町の見どころとなっています。
 
南蛮屏風(部分)/ リスボン国立古美術館
キャラック船の登場、大航海時代へ

一方、南方船も独自の発展を遂げました。13世紀にはローマの商船はフォアマスト(船首側のいちばん前のマスト)には大きな横帆を、もう一本のマストには三角帆(ラティーンセール)を掲げていました。もともとインド洋やペルシア湾を航行していたダウ船の大三角帆が伝えられたと考えられています。

14世紀になると、南北ヨーロッパに比較的大型の帆船キャラック船が登場します。北方船と南方船の要素を取り入れたもので、3本のマストのうち、フォアマストとメインマスト(2本目のマスト)に大きな四角い横帆を、ミズンマスト(3本目のマスト)には三角帆を取り付けたのです。舵は船尾中央に配し、甲板や船楼を持ちます。外板は平張りでした。こうして、北海やバルト海、地中海を航行していた帆船は、いよいよ大西洋横断のときを迎え、キャラック船の誕生によって大航海時代が幕を開けたのです。1492年、コロンブスはサンタマリア号で大西洋を横断し、新大陸を〝発見〟しました。サンタマリア号の図面は現存しないため、正確な復元はできないものの、キャラック船だったといわれています。

さらに、16世紀後半からキャラック船は、船首にあった船楼をなくし、よりスピードアップが見込める帆船(ガレオン船)へと移行していきます。

この頃、日本では戦国時代から徳川時代への変わり目で、このようなガレオン船に乗ってやってきたのが、ポルトガルやスペインの人々でした。ガレオン船は日本では南蛮船と呼ばれました。南蛮船の造船技術を使って、日本で最初期に建造された西洋型帆船のひとつが、仙台藩主伊達政宗の命による慶長遣欧使節団の船となったサン・ファン・バウティスタ号です。

奇しくも東日本大震災から400年前の1611年に起きた慶長三陸地震津波の被害を乗り越え、1613年には支倉常長らの一行がこの帆船サン・ファン・バウティスタ号で太平洋横断に出航しました。無事メキシコ・アカプルコに到着した常長らは、その後、スペインの船で大西洋を横断。1615年には、マドリードでフェリペ三世と、ローマではローマ教皇パウロ五世と謁見しました。1990年代に復元されたサン・ファン・バウティスタ号は、宮城県石巻市のテーマパーク内ドックに係留されていました。東日本大震災では大津波に襲われたものの、その損傷は部分的で、その雄姿をとどめたそうです。
 
グリニッジの乾ドックで公開されている カティーサーク号 (c)John Nuttall
ティー・クリッパー

9世紀半ばに帆走性能を極限まで向上させた帆船がクリッパー(快速帆船)でした。アメリカやイギリスで建造された快速帆船は、そのスピードを競う時代へと突入します。たとえば、茶ブームに沸くイギリスでは、航海中に変質することなく新鮮な茶をどこよりも早く市場に届けるためにその輸送時間を競いました。茶の輸送で活躍した帆船をティー・クリッパーと呼び、中国からイギリスまで約3万キロメートルを平均7・5ノット(時速約14キロメートル)を記録したといいます。

とりわけ新茶の一番茶は高値で取引されたため、茶の輸送競争が激しくなったのです。ティー・クリッパーの中で最も美しいといわれたのがサー・ランスロット号、最速と称されたのがカティーサーク号やサーモピレー号でした。1872年、最速と称された2隻のクリッパーは同じ日に上海の港から茶を積んでイギリスへ向け出帆しました。大きくリードしていたカティーサーク号でしたが、途中、舵を破損したことで、最終的にはサーモピレー号に1週間遅れて到着しました。3本マストに34枚の帆を掲げて誇らしげに大海原を疾走したカティーサーク号は引退後、修復されてロンドン郊外のグリニッジの乾ドックで一般公開されています。

19世紀に入った頃、すでに蒸気船は確実に実用化へと歩んでいましたが、そのスピードは当初、クリッパーと同じぐらいのレベルだったといいます。また、スエズ運河がカティーサーク号誕生と同じ1869年に開通。帆船の存在意義は徐々に失われ、海洋の移動手段の主役の座は汽船へと移っていったのです。

海洋ロマンを刺激する帆船、その歴史を辿って(前編)はこちら

参考文献

■帆船 6000年のあゆみ
(著/ロモラ&R・Cアンダーソン 訳/松田常美 成山堂書店 2004年)
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■図説 船の歴史 (著/庄司邦昭 河出書房 2010年)
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Hanse Sail(http://www.hansesail.com/)