2015年9月18日更新

マラッカと海のシルクロード(後編)

前編はこちらから

大航海時代に翻弄されるマラッカ  

しかしながら、その繁栄も17世紀になって幕を閉じます。1511年、大航海時代の西欧勢力の代表格であるポルトガルがマラッカ王国を襲撃して130年にわたり支配、さらに1642年にはポルトガル支配に反抗するマレー人と、マレー半島で採れる錫や香辛料を求めて進出していたオランダ人たちの連合勢力が政権を奪取するのです。その後も1824年からイギリス、第二次世界大戦中には日本の支配が続き、完全独立を遂げたのは、今から約60年前の1957年のこと。マラッカをはじめ、マレーシア各地で英語が比較的よく通じるのは、イギリス植民地時代の影響と考えられます。  
マラッカの中心、 オランダ広場

ポルトガルの主な目的は、貿易中継地としての利点と、東南アジアにおけるキリスト教(カトリック)の布教でした。16世紀初頭のマラッカについてポルトガル人が書き残した記録によると、「マラッカは多くの卸し商人とおびただしい交易船の集まる世界で最も豊かな港である」、「マラッカは重要性と利益の点で、匹敵する都市は世界中を探しても見当たらない」などと記され、いかに繁栄していたかがうかがえます。ポルトガルは最終的にマラッカ王国をはじめとする東南アジアのイスラム諸国への進出に失敗します。ただ、わずかマラッカだけには、カトリックの伝統やポルトガル音楽などが今なお土地の人々に受け継がれています。マラッカ中心部から東へ5キロメートルほどのところにはポルトガル人居住区があり、レストラン街でシーフードを楽しむこともできます。
 
マラッカ 聖フランシス教会
また、1549年鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝道した、日本でもおなじみのスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルは、マラッカも訪れています。ポルトガルの子孫たちによって建てられたザビエルの教会や像は、日本人旅行者のマラッカ観光の人気スポットです。  

オランダ支配時代の史跡は、今でもあちこちで見ることができます。たとえば、マラッカ観光のスタート地点となる広場は、オランダ広場と呼ばれ、教会や時計台、旧総督邸などオランダ時代の建物が並んでいます。また、1753年に完成したキリスト教会は、オランダ建築の代表作とされる木造のプロテスタント教会で、赤色の壁に映える純白の十字架が印象的。高さ30メートルの教会の天井の梁には、継ぎ目のない一本の木を使い、組み合わせにも釘を一本も使っていないという高度な建築手法が用いられています。

日本でも注目を集めるプラナカン文化

マラッカを訪れる際には、マレーシアの「プラナカン」もぜひ知っておきたい文化です。手の込んだビーズサンダルをはじめとするマレーシアでもひときわ華やかなその文化や工芸品は、日本でも注目が集まっています。
 
上:ニョニャ菓子 下:ニョニャ料理
プラナカンとは、マレー半島で繁栄を極めた中国系移民の子孫であり、マレーの生活風習や文化を巧みに取り入れた、特殊な中国人コミュニティのこと。プラナカンはシンガポールなどにも見られますが、発祥はマレーシアのマラッカです。そのルーツは古く、15世紀にマラッカ王国に嫁いだ中国・明の皇女とその従者がこの地へと渡ってきた頃から始まったと伝えられています。イギリスが統治していた時代にも、貿易やゴム・プランテーションなどの技術で富を築きました。

マラッカのチャイナタウンエリアには、マレー、中国の文化が融合された多彩な文化が今もなお息づいています。特徴的なのは、言葉、食事、衣類などはマレー様式、祖先崇拝や冠婚葬祭は中国式であること。チャイナタウンの「ヒーレン・ストリート」は、別名億万長者通りと呼ばれる場所で、かつて商売で巨万の富を築いたプラナカンたちの豪邸が立ち並んだ通り。間口は京都の町家のように一見狭いのですが、奥行きが100メートルもある家もあり、当時のプラナカンの繁栄を物語っています。

また、プラナカンの大富豪の邸宅をそのまま博物館として公開しているのが、ババ・ニョニャ・ヘリテージ博物館です。内部には当時の生活の様子や巨万の富を築いたプラナカンの人々の豪華絢爛な調度品や、マラッカに渡ってきた初期の頃の中国人の生活様式を伝える日用品や、家具、結婚衣装がろう人形を使って展示されています。

日本でも注目を集めるプラナカン文化  

マラッカを訪れる際には、マレーシアの「プラナカン」もぜひ知っておきたい文化です。手の込んだビーズサンダルをはじめとするマレーシアでもひときわ華やかなその文化や工芸品は、日本でも注目が集まっています。

プラナカンとは、マレー半島で繁栄を極めた中国系移民の子孫であり、マレーの生活風習や文化を巧みに取り入れた、特殊な中国人コミュニティのこと。プラナカンはシンガポールなどにも見られますが、発祥はマレーシアのマラッカです。そのルーツは古く、15世紀にマラッカ王国に嫁いだ中国・明の皇女とその従者がこの地へと渡ってきた頃から始まったと伝えられています。イギリスが統治していた時代にも、貿易やゴム・プランテーションなどの技術で富を築きました。

マラッカのチャイナタウンエリアには、マレー、中国の文化が融合された多彩な文化が今もなお息づいています。特徴的なのは、言葉、食事、衣類などはマレー様式、祖先崇拝や冠婚葬祭は中国式であること。チャイナタウンの「ヒーレン・ストリート」は、別名億万長者通りと呼ばれる場所で、かつて商売で巨万の富を築いたプラナカンたちの豪邸が立ち並んだ通り。間口は京都の町家のように一見狭いのですが、奥行きが100メートルもある家もあり、当時のプラナカンの繁栄を物語っています。

また、プラナカンの大富豪の邸宅をそのまま博物館として公開しているのが、ババ・ニョニャ・ヘリテージ博物館です。内部には当時の生活の様子や巨万の富を築いたプラナカンの人々の豪華絢爛な調度品や、マラッカに渡ってきた初期の頃の中国人の生活様式を伝える日用品や、家具、結婚衣装がろう人形を使って展示されています。    

ちなみに、ババとはプラナカンの男性、ニョニャとは女性のこと。中華料理とマレー料理の融合でできた、ババ・ニョニャ料理もあり、中華料理にココナッツを加えたり、マレー料理では使われない豚肉を取り入れたりするなど、スパイスを丁寧に扱ったマラッカ独特の味が楽しめます。  

また、プラナカンの女性が身に着けた「ニョニャ・ケバヤ」は、中国式の前開きのトップとマレー式の巻きスカートがセットになった民族衣装です。襟や袖の部分にあしらわれる刺繍の美しさが印象的で、ボディラインは細く絞られ女性らしさを強調しています。フェミニンで美しいニョニャ・ケバヤは、現在でも結婚式やパーティーの席で身に着けている女性を多く見かけることができます。その華かな美しさに出会えば、多民族国家として発展してきたマレーシアの中心だったマラッカの歴史も、よりドラマチックに心に染み入りそうです。

主な参考文献
マレーシアの歴史(ザイナル=アビディン=ビン=アブドゥル=ワーヒド編 野村亨訳 山川出版社 1983年)
海のシルクロードを調べる事典(三杉隆敏著 芙蓉書房出版 2006年)
日本脱出先候補ナンバーワン国マレーシア(石原彰太郎著 筑摩書房 2011年)
マレーシア政府観光局公式サイト
地域からの世界史第4巻 東南アジア(桜井由躬雄・石澤良昭・桐山昇著 朝日新聞社 1993年)