2015年9月11日更新

マラッカと海のシルクロード(前編)

マレー半島西海岸、クアラルンプールから車で2時間ほど南の港町マラッカ。ここは、マレーシアの歴史において、どれだけ強調しても強調しすぎることはない都市です。なぜならば、かつて「海のシルクロード」の交易で繁栄したイスラム王朝「マラッカ王国」が繁栄した場所だからです。海のシルクロードとは、草原の道、オアシスの道と同じく、ユーラシア大陸の東西両文明を結んで大きな役割を果たしたシルクロードのルートのひとつ。20年以上前になりますが、1980年代にNHK総合テレビの『NHK特集シルクロード』として放送されたドキュメンタリーシリーズが大ブームを巻き起こしたため、ご存じの方も多いでしょう。今回は、そんな海のシルクロードの交易拠点として発展したマラッカの歴史についてご紹介します。

マラッカ王国版・暴れん坊将軍がいた!?  

マラッカ王国は、東南アジアの歴史に最も大きな影響を与えたといっても過言ではありません。小さな港町の国家だったにもかかわらず、東シナ海とアラビア海のほぼ中間点であるという地理的優位性を生かし、ユーラシア大陸の東西の商人による絹や香辛料、ガラス、磁器などの貿易の拠点となることで発展していきました。

マラッカには古くから中国の華僑、インド人、アラビア人、ポルトガル人、オランダ人などが土着のマレー人と入り交じって住み、独特の文化を作り出しました。ポルトガル、オランダなどの影響を受けた東南アジアでは類を見ないユニークな街並みは、ペナン島のジョージタウンとともにユネスコ世界文化遺産にも登録されています。  

マラッカ王国の建国は、1400年にスマトラ島の王子パラメスワラがマラッカへ漂流したのが始まりといわれ、その後イスラム教を積極的に受け入れ、インド、中国、アラブ、ヨーロッパ諸国との貿易の中継点として繁栄していきました。現在はその名残が残るのみですが、マラッカ王国時代のスルタン(王)の王宮を再現したマラッカの文化博物館「マラッカ・スルタン・パレス」を訪れると、当時の様子を知ることができます。  
海のシルクロードの要塞として栄えたマラッカ

当時、マラッカ王国の有能な君主は国事の全権を手中に収めていました。1477~88年に在位した7代目のアラウッディン・リアヤット・シャー王などは、自ら町人姿に身をやつして夜に町を歩き、法秩序が保たれているか、正義が行われているかどうかを視察して回ったといいます。事実は明らかではありませんが、まさに日本で人気を博したドラマ時代劇『暴れん坊将軍』の徳川吉宗のマラッカ版です。  

王国の主な財源は、マラッカに来港する外国人商人たちが払う関税でした。また、15世紀中頃になるとイスラム教が急速に広まり、教義の研究や議論も熱心に行われていたそうです。つまり、エジプト、アラビア、インド、中国などと並ぶ海のシルクロードの主要貿易港だったのに加え、イスラム神学研究の中心地でもあったことが、マラッカの東南アジアにおける地位を高めることになります。  

マレー半島とスマトラ半島との間のマラッカ海峡は、世界的にも珍しい、風が少なく波の立たない海です。大量に貿易の荷物を積んだ大船が、現在の蒸気船とは違う帆と櫂だけの力でノロノロ移動するものですから、海のシルクロードの中でも海賊の襲撃が非常に多い海の難所のひとつでした。マラッカ王国はマレー半島西岸の支配を維持する一方、スマトラ東岸の諸国を傘下に組み入れ、さらにはシンガポール付近に出没する海賊も撲滅したそうです。  

では、どのようなものがマラッカを通って運ばれていったのでしょうか。マラッカ王国は中国の保護を受けながら、東南アジア・ネットワークを作り出していきます。これは、シンガポールを中心とする近代の東南アジア・ネットワークの原型です。ヨーロッパの需要が多かったのがコショウです。コショウの産地はもともと南インドが中心でしたが、急速な需要の拡大に伴い、スマトラ産のコショウ、さらにクローヴやナツメグに代表される東インドネシア産の香辛料の需要も拡大したため、それまでペルシャ湾沿岸や南インドを中心軸としていた海のシルクロードの東西交渉が、マラッカ王国が繁栄した15、16世紀には大きく東にその軸を移して、マラッカで行われることになります。

後編はこちらから

主な参考文献
マレーシアの歴史(ザイナル=アビディン=ビン=アブドゥル=ワーヒド編 野村亨訳 山川出版社 1983年)
海のシルクロードを調べる事典(三杉隆敏著 芙蓉書房出版 2006年)
日本脱出先候補ナンバーワン国マレーシア(石原彰太郎著 筑摩書房 2011年)
マレーシア政府観光局公式サイト
地域からの世界史第4巻 東南アジア(桜井由躬雄・石澤良昭・桐山昇著 朝日新聞社 1993年)