2015年7月24日更新

ポーランドの歴史とショパンの生涯(後編)

前編はこちらから

祖国の地を踏むことなくパリに散る  

ワルシャワで革命が起きたのは、ショパンたちがウィーンに到着した、まさにそのすぐ後でした。そのことを知ったティトゥスは、すぐに祖国に戻ります。しかしショパンはウィーンに残りました。ティトゥスが、祖国に戻るというショパンを、音楽で祖国に尽くすよう諭したともいわれています。  

オーストリアは、ポーランドの分割当事国です。ショパンに好意的だったウィーンの空気も次第に変化していました。こうした中、ショパンは、1831年9月、ウィーンを去り、フランス・パリに旅立ちます。  

1830年11月に始まったワルシャワの革命は、9カ月続いた後、ロシア軍に鎮圧され失敗に終わりました。ショパンは、そのことをパリに向かう途中のシュトゥットガルトで知ります。祖国そして祖国にいる大切な人々を案じるショパンは、自らの無力感と孤独にさいなまれました。そのときの心情をつづったノートには、ショパンの取り乱した言葉が並んでいたとされています。そして、こうした苦しい感情の中で作ったといわれているのが、「革命のエチュード」と呼ばれる練習曲です。旋律の激しさを、ショパンの心情と重ねて聴く人も少なくないでしょう。
 
ワジェンキ公園のショパン像

こうしたなか、パリに辿り着いたショパンですが、次第に音楽家としての名声を高めていきました。彼は社交界の花形として華々しい活躍をし、ピアノの指導者として多くの弟子から慕われる存在になります。今に伝わる名曲の数々も生み出しました。人気作家ジョルジュ・サンドとの愛憎もショパンの人生を彩り、そして大きな影響を与えたことは想像に難くありません。  

しかし、人生の後半は、結核による体調悪化との戦いでした。20歳でワルシャワの地を後にしたショパンは、その後一度も祖国の土を踏むことなく、1849年、39歳の若さで亡くなりました。  

祖国ポーランドへの強い想いを抱きつつ、一度も帰らなかったのはなぜなのか。その理由はわかっていません。フランス人でありながら、ポーランド移住後一度もフランスに帰らなかった父と同様、ショパンの祖国への想いは、私たちの想像の及ばない複雑なものだったのかもしれません。ショパンが最後に作曲したのは、ポーランドの民族舞踊を起源とするマズルカでした。
ワルシャワ・聖十字架教会に安置されたショパンの心臓

鮮やかなるヨーロッパへの復帰  

1830年の革命失敗の後、ワルシャワではロシアによる締めつけが厳しくなっていました。その後も、1846年と1863年に蜂起がありましたが、いずれも失敗に終わっています。  

蜂起という形の闘争が相次いで失敗に終わると、人々の間には、蜂起よりまずすべきは、経済力をつけ、社会的土台を築くことだとする「ポジティヴィズム」が生まれました。ポジティヴィズムへの反動などを経て、ポーランドがロシアからの独立を果たしたのは1918年です。第一次世界大戦終結後、ロシアが領有権を放棄し、123年に及ぶ分割時代が終焉しました。  
しかし独立後も苦難の歴史は続きました。第二次世界大戦で、今度はナチス・ドイツとソ連によって、再び分割されます。第二次世界大戦終結後、再び独立を勝ち取りますが、ソ連の影響を大きく受けたポーランドでは、1947年に行われた選挙で共産勢力が大勝、社会主義国となりました。  

その後、民主化運動が激しくなり、国内各地で暴動が頻発します。1980年には、労働組合「連帯」が結成されました。翌年には戒厳令が敷かれ、「連帯」の活動は地下に潜ることになりますが、ポーランドは、ヨーロッパ諸国が王政を続けていた16世紀にあって、民主的な選挙で国王を選んだ国です。民主化への流れは止まりませんでした。民主主義への強い回帰欲求は、1989年の円卓会議での平和的な体制転換という形で結実します。旧ソ連圏では初となる非社会主義政権の誕生でした。その後1999年にNATO加盟、2004年にはEU加盟を果たし、ポーランドは短い期間にヨーロッパへの復帰を遂げたのです。

苦難の歴史を生きたポーランドの人々に、ショパンの曲が与えた勇気はどれほど大きなものだったでしょうか。異国の地で果てたショパンの心臓は、姉ルドヴィカとともに祖国に戻り、ワルシャワの聖十字架教会に納められています。


主な参考文献
カラー版 作曲家の生涯 ショパン(著/遠山一行 新潮文庫 1988年)
もっと知りたいポーランド(編/宮島直機 弘文堂 1992年)
ポーランドを知るための60章(編著/渡辺克義 明石書店 2001年)
ショパン(作曲家 人と作品シリーズ)(著/小坂裕子 音楽之友社 2004年)
外務省「わかる!国際情勢〜ポーランドという国」