2014年3月14日更新

モデルニスモ建築 ガウディとモンタネール (前編)

今なお建設が進められている最も有名なガウディ作品、サグラダ・ファミリア。内部が一般公開されるようになりました
芸術の町バルセロナ。スペイン北東部、ピレネー山脈と地中海に抱かれ、起伏に富むカタルーニャ(カタロニア)地方の主都です。画家のピカソやミロ、ダリ、そして建築家ガウディら多くの芸術家を輩出しました。バルセロナと聞くと、ガウディやサグラダ・ファミリアを思い出す人も多いと思います。ガウディの作品が圧倒的な存在感を持って町中に点在し、人々の日常生活に溶け込むバルセロナ。今回は、ガウディ建築とともに、19世紀末に興ったモデルニスモ運動の中心的存在だったモンタネールについて、その人物に焦点を当て、カタルーニャ・モデルニスモ建築をご紹介します。

カタルーニャ・モデルニスモ運動

モデルニスモ(またはムダルニズマ)とは、スペインにおける世紀末芸術のこと。19世紀末、パリを起点に興り、欧米各地で流行した装飾様式アールヌーヴォーの流れを汲むもので、カタルーニャ地方で広まった運動です。当時、バルセロナを中心としたカタルーニャ地方は、繊維産業によって経済的な発展を遂げていました。活気あるバルセロナでは都市の発展に伴い、建築はもとより、インテリアや装飾品、彫刻、文学や演劇まで広範にわたってその運動が展開され、「新しい表現」が求められたのです。  

1888年に開かれたバルセロナ万博あたりから、建築分野におけるモデルニスモ運動の傾向が表れました。アントニ・ガウディ(1852〜1926年)のカサ・ビセンス(1880年制作)、ドメネク・イ・モンタネール(1850〜1923年)が設計したモンタネール・イ・シモン出版社の社屋(1884年制作)をもって、カタルーニャ・モデルニスモ運動の幕開けといわれました。

モデルニスモ運動の中心的存在はドメネク・イ・モンタネールでした。ガウディは一般的にモデルニスモの建築家として位置づけられていますが、異論もあり、議論が分かれるところだそうです。
 
カタルーニャ・モデルニスモを代表する2人の建築家、ガウディとモンタネールの人物像を追ってみましょう。
 
アントニ・ガウディ (1852〜1926)
口下手で不器用だったガウディ

ガウディは、カタルーニャ地方レウスの銅細工職人の息子として生まれました。経済的に恵まれない幼少時代を過ごし、学生時代にはアルバイトをしながら家族を養っていたといいます。バルセロナ建築学校に入学するも、病気や成績の悪さから3年ほど長い5年をかけて卒業し、建築家の資格を取得しました。

ガウディはカタルーニャ人であることを誇りとし、生涯においてバルセロナを中心に活動しました。よき理解者でありパトロンだったグエルとの出会いもあってか、国外に自身の作品を残すことはありませんでした。理論嫌いだったとされ、現在、建築中のサグラダ・ファミリア贖罪聖堂についてもその建築理論を書き残していません。一冊の著書もなく、大学などで教鞭をとることもない、生涯現場にいた建築家でした。多くの弟子を持ち、弟子の才能を見出しました。色彩感覚に優れ、ガウディの右腕といわれた建築家ジョゼプ・アリア・ジュジョールも弟子のひとりでした。

口下手で不器用だったとも伝えられます。とりわけ恋愛ベタで、ガウディの恋愛にまつわるエピソードはどれもほろ苦いもの。最初の恋は31歳のとき。離婚歴のある女性に恋をし、ひとりでは彼女と話をすることもできず、ガウディは姪を連れてこの女性の元に毎週末、通いました。彼女の前では緊張し、自分が嫌われていることもわからなかったといいます。生涯において3度の失恋を経て、結局、独身を通しました。ワーグナーに心酔し、ワインが大好きで大変なヘビースモーカーだったと伝えられます。しかし、晩年はアルコールもタバコもやめて、敬虔な信者となり、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂の建築に没頭しました。

ガウディの最期は実に寂しいものでした。1926年6月、ミサに行く途中で市電にはねられ病院に運ばれたものの、その身なりから誰も建築家ガウディとは思わず、浮浪者に間違われたのです。3日後、病院にてこの世を去りました。彼の意に反して盛大な葬儀が営まれ、サグラダ・ファミリアに埋葬されました。

後編はこちらから