2014年2月14日更新

オスマン帝国と魅惑の都市イスタンブール(前編)

ボスフォラス海峡とスレマニエモスク
教会から転用されたモスク、ミナレット、宮殿やイスラム建築の優美な邸宅、活気あるバザール(市場)、季節にはチューリップの花が咲く庭園などなど。イスタンブールを訪れれば、ヨーロッパとアジアを結ぶ東西文化の交差点らしい混沌とした空間と、街角に漂うオスマン帝国の歴史に魅了されることでしょう。オスマン帝国は、その起源を1299年にまで遡ります。多民族、多宗教の共存する寛容な地方自治、中央集権化による優れた統治システムの構築によって、約600年もの長い間繁栄した帝国でした。

1453年にキリスト教を信奉するビザンツ帝国(東ローマ帝国)の千年の都コンスタンティノープルを攻略し、オスマンの新しい都としました。その後、100年ほどで、アナトリア半島から中欧、北アフリカ、コーカサス南部をその最大版図とする大帝国となったのです。一方、イスタンブールという地名にエキゾチックな響きと情緒を感じる人も少なくないはず。イスタンブールは19世紀には豪華列車オリエント急行の東の終着駅(シルケジ駅)であったように、ヨーロッパを中心とした上流階級の人々の憧れの地でもありました。今月号では15、16世紀に活躍した英雄的な2人のスルタン(メフメット二世とスレイマン一世)と魅惑の古都イスタンブールに焦点を当ててオスマン帝国の歴史を概観します。

オスマン帝国以前のアナトリア

現在のトルコ共和国は、アジア側のアナトリア半島(小アジア)とヨーロッパ側のトラキア(バルカン半島東部地方)をその領土としています。アナトリア半島はアジア西端にあり、北部を黒海、南部を地中海、西部をエーゲ海に囲まれた半島で、ボスフォラス海峡を隔ててバルカン半島に対しています。

アナトリアは、紀元前からローマ帝国、そしてビザンツ帝国(東ローマ帝国)の一部であり、ギリシャやアルメニア系のキリスト教徒が多く暮らしていました。11世紀初頭にトルコ系遊牧民が東方の中央アジアからアナトリア内陸部の高原地帯へと移入し、1077年にはルーム・セルジューク朝が成立しました。一方、11世紀前半、ビザンツ帝国は全盛期を迎えましたが、同後半になるとアナトリアの領土の大半を失い、12世紀にはトルコ系のルーム・セルジューク朝とダニシュメンド朝、そしてビザンツ帝国の3国に分割されることとなりました。13世紀後半までの間に、ビザンツ帝国は、第4次十字軍によるコンスタンティノープル陥落で、急速に勢力が衰え、亡命国家を作るなどして命脈を保っていました。また、13世紀中頃、ルーム・セルジューク朝がモンゴル軍に敗れたことで、アナトリアはトルコ系の小国による群雄割拠の時代を迎えたのです。
 
メフメット二世の肖像 (ジェンティーレ・ベリーニ作) ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵
多宗教、多民族の共存と 中央集権化の統治システム

1299年、トルコ系遊牧民による軍事的な小集団を率いたオスマン一世(1299~1326年)は、アナトリア北西部の都市ブルサをビザンツ帝国から奪い、都と定めました。オスマン帝国600年の歴史の幕開けです。長いオスマン帝国の歴史において、メフメット二世(在位1444~46年、1451~81年)の治世から、スレイマン一世(在位1520~66年)までの約100年間がも最も繁栄しました。

オスマン帝国の繁栄を支えたのは、中央集権化した優れた統治システムでした。歴代スルタン(イスラムの王)は、キリスト教徒をはじめとした異教徒とイスラム教徒を区別したものの、差別はしませんでした。民族や宗教、出自にかかわらず優秀な人材を登用し、支配した地域の社会的習慣や宗教を認め、自治を任せる柔軟な統治を行ったのです。また、イエニチェリ軍は、帝国支配下の地域で集められたキリスト教徒の歩兵部隊で、帝国最強の軍といわれていました。バルカン半島では、キリスト教徒の少年も徴用され、優秀な少年はエリート教育を受け、宮廷で働くなど、帝国を支えたのです。