2013年12月13日更新

中世の城郭都市と人々の暮らし(前編)

アビラの町並みと9月の歳月をかけて造られた、全長約2.5キロメートルの城壁 ©Rafael Delgado Hidalgo

日本には見られない城壁のある町の姿には、非常に旅心をくすぐられます。ヨーロッパには大小いくつもの城壁を持つ町がありますが、今月は、城郭都市の見どころとその特徴を紹介しつつ、ヨーロッパでも有数の城壁に囲まれたフランス・カルカッソンヌ、スペイン・アビラ、そしてクロアチア・ドブロヴニクを取り上げます。

城壁で囲まれたこれら旧市街の散策はもちろん、城壁の上を歩いたり、冷たい石の壁に触れたり、城壁が旧市街をぐるりと囲む姿を遠望すれば、その心は遠い中世の時代へと飛び、どこまでも想像力が膨らんでいくにちがいありません。
 
12世紀以降のヨーロッパ

ヨーロッパでは11世紀後半、農業技術の進展により農耕地や牧草地が増え、生産率が向上して人口は増加、社会秩序も回復し、安定した時代が始まろうとしていました。これには十字軍遠征により東方からもたらされた様々な技術の影響もありました。国王や封建領主の経済力も高まり、12世紀頃になると、それまでの土木による簡易な城から、石材の城が主流となっていきました。敵の攻撃や侵略、略奪から身を守るため、堅固な城壁を巡らせた城塞都市が築かれました。

この時代のヨーロッパの城門には一般的に鉄製の落とし格子、跳ね橋、石落とし、矢狭間が備えられていました。先が尖った鉄製の落とし格子は現在、撤去されている場合も少なくありませんが、門を通過する際に両側面に縦長の溝(スリット)が入っていれば、かつて落とし格子があったと考えられます。日没とともに跳ね橋は上げられ、鍵をかけられて、誰も出入りできないようになっていました。後の時代には廃止されましたが、門の上部の外壁に縦溝が2、3本あれば、それはかつて跳ね橋だった証です。さらに上を見上げて、外壁が迫り出した部分に穴があいていれば、それは石落としです。城門を上ってくる敵兵の頭の上に石を落としました。矢狭間は兵士が弩で矢を射るために設けられたもの。石落としや矢狭間は城門の上だけでなく、城壁にも備えられている場合もあります。また、城壁の迫り出した塔は、城壁を見渡す死角を作らないための工夫です。カルカッソンヌやアビラでも見られる、城壁や塔の屋上にある胸壁(欄干状のデコボコの壁)は、敵からの矢を受けないためのものです。

中世の城は外敵から身を守ることを第一に考えて築かれているため、その居住性はけっして良いとはいえませんでした。窓は小さく、高価なガラスを使うことは希でした。小さな窓を閉めれば、室内は昼間でも真っ暗です。石造りの城郭は、夏は暑く、冬は寒いため、快適さとはまったく無縁の生活だったと想像できます。ヨーロッパの城に大きな窓や庭ができるのは、大砲ができたことで城壁の意味がなくなってからです。
内城壁と外城壁のあるカルカッソンヌ
中世にタイムスリップ カルカッソンヌ

フランス南部ラングドック・ルシヨン地方にある中世の城郭都市カルカッソンヌ。オード川を見下ろす台地に築かれたシテ(旧市街)は二重の内外城壁と52の塔を備え、12世紀に築かれたコンタル城をはじめ、城門や塔がほぼ完璧な姿で残されています。この地は古くから交通の要所として重要な役割を果たしていました。古くはガリア人やローマ人が砦を築き、12世紀にはトランカヴェル伯がこの地を支配し、その後王領に。1659年の西仏戦争終結後、カルカッソンヌは要塞としての役割を終え、すっかり忘れられた存在になったといいます。

シテの西側、オード川に架かる橋(ポン・ヌフ)から見上げた城郭都市はまるで絵はがきのよう。中世から抜け出したような美しいシルエットです。オード川の西側に位置するのが2番目に古い旧市街(ヴィル・バース)です。  

シテを囲む城壁の総延長は約3キロメートル。ローマ時代の城壁をもとに造られた内城壁と、13世紀に築かれた外城壁があります。城壁を見上げれば、そこには石落としや矢狭間、胸壁などの防衛戦略が施されています。木造のため、ほかではあまり見るチャンスのない、張り出し歩廊がコンタル城の城壁や塔に復元されています。回廊で床に穴(矢狭間)が設けられ、ここから城壁を登ってきた敵に弩を引き、石を投げました。最大の見どころはコンタル城から内城壁の上へと出て南辺にあるサン・ナゼール門までの道。円塔や角塔など塔をくぐり、外城壁を見下ろし、城壁内の旧市街やヴィル・バースの町を見渡すなど絶好の散策コース。その後はシテの細い路地を歩き、疲れたらカフェのテラスでひと休み。ゆっくりと中世の城郭都市を楽しみましょう。

シテのある台地は東側だけが平坦で、残る三方はきつい傾斜となっているため、東側のナルボンヌ門は城塞のような大規模な城門になっています。ここでは伝説の王妃カルカスの像が旅行者たちを出迎えています。8世紀後半には当地はサラセン人(イスラム教徒)によって支配されていました。フランク王国の英雄カール大帝による兵糧攻めに耐え、知略によって撃退したのがサラセン人の王妃カルカスです。王妃は一頭の豚に残り少ない食べ物を与え、太らせた豚を大帝の陣地に向けて放り捨てました。これを見た大帝は兵糧攻めは無理と判断して撤退したのだそう。大帝を尻目に勝利の鐘を鳴らすカルカス。大帝の部下が「閣下、カルカスが鐘を鳴らしています(Sire, Carcas sonne!)」と告げ、そこからカルカッソンヌという地名になったとされます。

この戦いにまつわる逸話をもうひとつ。この兵糧攻めをされた際にサラセン人たちが食べていたのが、フランス南西部の伝統料理カスレだというもの。地方によりバリエーションのある土鍋料理カスレですが、カルカッソンヌでは豚を中心に白いインゲン豆に羊や山ウズラなどが煮込まれます。これは逸話ですが、カルカッソンヌではいたるところでカスレが提供されています。

主な参考文献
ヨーロッパものしり紀行《城と中世都市》編(著/紅山雪夫 新潮社 2004年)
フランスものしり紀行(著/紅山雪夫 新潮社 2008年)
添乗員ヒミツの参考書 魅惑のスペイン(著/紅山雪夫 新潮社 2009年)
旅名人ブックス クロアチア/スロヴェニア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(著/外山純子 中島賢一 日系BP企画 2007年)