2013年11月8日更新

森林に興った美の王朝アンコール (前編)

インドシナの中世史を彩るアンコール王朝。インド伝来のヒンドゥー教と仏教の影響を強く受け、独自の文化が花開いたアンコール朝の栄華は、その遺跡群から垣間見ることができます。しかし、遺跡群の劣化が激しく、世界遺産の危機リストに登録され、日本をはじめとした各国のアンコール遺跡救済、保全チームが援助を行っています。

アンコール遺跡が点在するシェムリアップでは、かつての王国の時代と同じように、トンレサップ湖やシェムリアップ川に寄り沿い、貯水池バライを利用して生活しています。壁面の浮き彫りが語りかける物語に耳を傾けに、人々に忘れ去られ、森の中で数百年もの間、息を潜めていたアンコール遺跡にお出かけください。
アンコールワットの夕日
26人の王が築いたクメール人の王朝

インドシナ半島カンボジア・シェムリアップ近郊。北の聖地クーレン丘陵から南の東南アジア最大の淡水湖トンレサップ湖へと下る扇状地にアンコール遺跡群があります。802年にカンボジア王統の血を引く王子が南北に分裂したクメール人の国を再び統一してから、1431年頃にタイのアユタヤ王朝が侵攻しアンコール都城を陥落するまでの約600年間、インド的な豊かな文化と高度な土木や農耕技術を持ったクメール人の王国が栄えました。

建国の王ジャヤヴァルマン二世(在位802〜834年)に始まったアンコール朝の政治は、王を中心とした寡頭制で、集権的な国家でした。祭政一致の傾向も強く、バラモンの祭司が王の即位聖別式を執り行いました。宗教は、土着の山岳信仰とインドから伝わったヒンドゥー教と仏教でした。これら宗教は、アンコール美術に大いに影響を与えています。

残されている碑刻文などから、アンコール朝には正統な王として26人が即位したことがわかっています。血縁による王位継承ではなく、戦いを制したものが王の座に就いた王朝でした。王位継承の激しい戦いによって都城や寺院、王宮が破壊され、略奪行為が繰り返されました。このため王は即位と同時に自らの都城、寺院や王宮を建造したのです。実力ある王の治世下では、国は版図を拡大しました。もちろん、王朝が弱体化し、隣国の脅威にさらされたことも少なくありません。  

最盛期の版図は、カンボジアはもちろん、ベトナムの南半分、ラオス南部とタイのほぼ全域までも治めたと記録されています。とりわけ繁栄を謳歌したのは、スールヤヴァルマン二世(在位1113〜1150年)とジャヤヴァルマン七世(在位1181〜1218年)の時代でした。どんな王朝にも必ず終わりがあります。ジャヤヴァルマン七世没後、王朝は急速に衰退へと向かいます。各地で反乱が起こり、アンコール都城は陥落。この地のクメール人はプノンペンへと逃れ、そこで都城を築いたのです。
奥に見えるのがバライ(貯水池)
驚異の土木技術と治水灌漑設備

アンコール朝の発展の鍵は高度な土木技術による治水灌漑システムにあったといえそうです。カンボジアは雨季には洪水が起こり、乾季は乾燥してトンレサップ湖の湖底が見えるほど干上がっていました。歴代王は長い年月をかけて大規模な貯水池(バライ)をはじめ、延べ数百キロメートルにもなる水路や堤防などの治水灌漑設備を整備したのです。11世紀初めに開削された西バライは東西8キロメートル、南北2.5キロメートルにおよぶ大規模な貯水池で、現在でも使用されています。高度な治水技術によって肥沃な田畑が拡大し、乾季にも稲作ができるようになり、当然人口も大幅に増えていきました。

紀元後1000年頃のアンコールを世界の他都市と比較してみると、いかに大規模な都だったかわかります。当時、世界人口は約2億5000万人だったと推測され、この頃、最大の人口を誇ったのが、イスラム教徒が支配した後ウマイヤ朝のスペイン・コルドバで約45万人、次いで北宋の首都だった開封(約40万人)、ビザンツ帝国の都コンスタンチノープル(約29万人)、そしてアンコール都城(約21万人)と続きます。華やかな平安の貴族文化が花咲いた京都の人口は当時、16万人ほどで、アンコール都城よりも都の規模は小さかったのです。
 
主な参考文献
アンコール・王たちの物語 (著/石澤良昭 日本放送出版協会 2005年)
アンコール遺跡を楽しむ 改訂版 (著/波田野直樹 連合出版 2007年)
新訂増補 東南アジアを知る事典(監修/石井米雄、高谷好一ほか 平凡社 1999年)
ナショナル ジオグラフィックス日本版「水に支配された都アンコール」 (文/リチャード・ストーン 日経ナショナル ジオグラフィック社 2009年7月号)