2013年12月30日更新

「WORLD旅のひろば」2014年1月号特集 華のフィレンツェ
メディチ家とルネサンスの都フィレンツェ(後編)

前編はこちらから

ロレンツォ豪華王

後を継いだロレンツォ(1492〜1519年)は、ピエロの息子で、老コジモの孫です。彼は若干20歳でメディチ家当主となりました。外見的魅力に乏しい人物でしたが、会って話した人は誰もが彼に魅せられたといいます。豊かな教養の持ち主で、君主にふさわしい教育を受け、幼い頃から宮廷の社交に必要な作法を身につけて外交の場にも臨んでいました。

この時代、フィレンツェではボッティチェルリ、ヴェロッキオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった天才が活躍し、ルネサンス芸術全盛の頃でした。しかし、メディチ家の経済的基盤であった銀行は衰退へとすでに向かっており、財政状況は老コジモの時代に比べると明らかに悪化し、パトロンとして絵画や彫刻の美術作品や建築の注文は多くありません。しかし、ロレンツォは、各都市の宮廷が欲したフィレンツェのキラ星のごとく輝く天才美術家らを各地へと派遣しました。たとえば、ダ・ヴィンチをミラノに派遣し、ミケランジェロやボッティチェルリはローマへと推薦し、そのほかにも多くの芸術家を各地へと派遣しました。フィレンツェでは大規模な公共建築や絵画や彫刻による装飾がほぼ完成していたためとの見方もありますが、ロレンツォのパトロンとしての芸術振興策は、イタリア全体の美術発展に寄与したといわれています。
 
コジモ一世(1519〜74年)
ピッティ、ウフィツィ、ヴェッキオ宮殿

メディチ家はその歴史において、1492年と1527年の2度にわたってフィレンツェを追放されています。そのたびにフィレンツェに戻り、さらに力をつけて権力の座にとどまりました。こうした時期メディチ家はレオ十世とクレメンス七世という2人の教皇を輩出しました。

コジモ一世(1519〜74年)は、17歳の若さでメディチ家の当主となり、フィレンツェの絶対君主として40年近くもその覇権を手にしました。この間、官僚機構を整備するなど国家形成に尽力し、大規模な建築・装飾事業に着手しました。これによりフィレンツェはヨーロッパでも有数の宮廷都市に生まれ変わったのです。

コジモ一世はスペイン貴族でナポリ福王の次女エレオノーラを妻に迎えました。病気がちだった妻のため、コジモ一世は快適な居住環境を求めて、アルノ川南岸のピッティ宮殿に一家の住まいを移します。ピッティ宮殿は15世紀半ば、ブルネレスキが設計し建築にとりかかったものの、ピッティ家没落によって工事が中断されていました。新宮殿はエレオノーラの洗練された宮廷趣味が生かされ、宮殿そのものも大幅に拡張されました。背後には広大なボーボリ庭園も造営されました。ピッティ宮殿の前に暮らしていたドゥカーレ宮殿はヴェッキオ宮殿(旧宮殿)と名前を変え、迎賓の場として使用しました。そして、ヴァザーリを美術監督として、神話化したメディチ家とコジモ一世を称える歴史画を諸室に飾り、一族の栄光を讃えました。  
ウフィツィ美術館。珠玉のルネサンス作品をご覧になれます
同時に、アルテの本部をはじめ、裁判所、各種役所を集約し、効率的に管理するための宮殿(新庁舎)を隣接地に古典主義様式で建造。機能的な美しさを備えた建物を完成させました。これがイタリア語の役所、オフィスという意味のウフィツィで、ヴァザーリが主導して事業を進めました。現在のウフィツィ美術館です。そして、コジモ一世は、安全に行き来できるよう、ヴェッキオ宮殿からウフィツィ宮殿を通り、ポンテ・ベッキオの橋を通ってピッティ宮殿までを結ぶ高架式の歩廊(ヴァザーリの回廊)を建造しました。ポンテ・ベッキオは宝石店が並ぶ橋ですが、その2階部分を歩廊にしたのです。


メディチ家最後の人

コジモ一世と次の君主フェルディナンド一世による16世紀の統治は、フィレンツェを中心としたトスカーナ大公国に平和と安定をもたらしましたが、経済的、社会的には衰退の道を辿っていました。そして、メディチ家最後の当主ジャン・ガストーネ(1671〜1737年)が1723年にトスカーナ大公位を継承し、37年に世継ぎを残すことなく逝去したことでメディチ家は断絶。ロートリンゲン家(フランスのロレーヌ家)に継承されました。今日、メディチ家の宮殿や別荘、美術品、写本、家具調度、工芸品や宝石といった莫大な財産がフィレンツェに残されているのは、メディチ家の血を引く最後の人物、ジャン・ガストーネの姉アンナ・マリア・ルイーザ(1667〜1743年)の功績によるものです。彼女は1743年、75歳で亡くなりますが、メディチ家の一員であることを誇りとして、死の間際までメディチ家らしくパトロンとしてサンロレンツォ教会の造営などに尽力しました。そして、ロートリンゲン家の新大公フランツ・シュテファンと交渉し、同意を取り付けて、メディチ家の残されるすべての財産は、大公位継承者に譲渡するものの、フィレンツェから一切持ち出すことを永遠に禁ずるとの遺言を残しました。現在もその遺言の効力は失われていません。

※ここで記載する年号については、『メディチ家』(講談社 1999年)に基づいています。

主な参考文献
メディチ家(著/森田義之 講談社 1999年)
図説 メディチ家 古都フィレンツェと栄光の「王朝」(著/中嶋浩郎 河出書房新社 2004年)
イタリアものしり紀行(著/紅山雪夫 新潮社 2007年)