2015年7月10日更新

ポーランドの歴史とショパンの生涯(前編)

ポーランドが誇る音楽家、フレデリック・ショパン。希代の天才が生み出した名曲の数々は今も世界中で愛され続けています。彼の生きた時代のポーランドは、激動の時期にありました。今月は、音楽家ショパンの生涯を交えながら、苦難の歴史を刻んできたポーランドを概観してみましょう。

17世紀、世界地図から国名が消えた
徹底的な破壊から市民たちの手によって蘇ったワルシャワ旧市街

国家としてのポーランドの歴史は10世紀に始まります。現在のポーランドの地にはそれ以前から西スラブ人が定住を始めていたことがわかっていますが、9世紀頃その一派であるポラーニエ族が台頭、そのうちピャスト家が周囲の部族を統合、統一国家を形成しました。  

ピャスト家のミェシコ一世が966年に洗礼を受け、キリスト教を受け入れたことが、国家の体を成すきっかけとなりました。これで、当時領地拡大を続けていた神聖ローマ帝国のポーランド進出を食い止め、他のヨーロッパ諸国と同列の地位を築いたのです。1000年にはミェシコ一世の子ボレスワフ一世が、ローマ教皇から正式にポーランド国王として認められました。  

しかし、その後、継承権をめぐって王家内部に対立が起き、その混乱に乗じてチェコが侵入するなど、国内は不安定な状況が続きます。「大王」を名乗ったポーランド王カジミェシュ三世が即位、国力増強に貢献しますが、後継者がなかったためピャスト朝は断絶。ポーランドがヨーロッパの大国として栄華を極めたのは、この後14世紀に興ったリトアニア大公のヤギェウォに始まる王朝の時代でした。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破るなどして領土を拡大。ヤギェウォ王朝後期の16世紀に国土は最大になります。  
 
ワルシャワの街は一国の首都でありながら見どころは中心部に集まっており、徒歩で歩き回れるほど良い大きさの街です

しかし、16世紀後半にヤギェウォ王朝が断絶すると、国力は次第に低下していきました。「シュラフタ」と呼ばれる地方の貴族たちが、選挙で国王を選ぶシュラフタ民主制を始めますが、次第に一部の貴族に富が集中、諸外国の干渉も激しくなっていきます。  無政府状態となったポーランドに目をつけたのが、隣国ロシアとプロイセン、オーストリアでした。18世紀後半には、この3国によってポーランドは3度にわたって分割され、1795年、ポーランドはついに消滅。この後123年にわたり、世界地図からポーランドの名は消えることになります。  

ポーランドの首都であったワルシャワは、この分割でプロイセン領に組み込まれます。1807年、プロイセンを征服したフランス皇帝ナポレオンの後押しで、フリードリヒ・アウグストがワルシャワ公国を建国するものの、ナポレオンがロシアに敗れると、1815年のウィーン会議でポーランドはロシアに併合され、ロシア皇帝が国王を兼ねるポーランド立憲王国としてロシアの支配下に置かれました。

祖国の独立問題に揺れた若きショパン
ジェラゾヴァ・ヴォラ村にあるショパンの生家

ショパンが生まれたのは、まさに地図からポーランドの名が消えていたこの時代に当たります。  

ショパンは、1810年(1809年説もあります)、ワルシャワの西50キロ強のところにあるジェラゾヴァ・ヴォラという村に生まれました。その後間もなく、父が教師の仕事を見つけたことでワルシャワに移住。教養の高い両親と、芸術や文学のセンスに長けた姉妹たちに囲まれ、ショパンは、幼少期よりその突出した音楽の才能を発揮しました。ピアノの演奏はもとより、1817年には最初の作品「ト短調のポロネーズ」が自費出版されるなど、10歳にも満たないうちから作曲家としての名声も手にしています。非常に感性の豊かな少年で、美術や演劇でも才能の片鱗を見せていました。  

この頃のワルシャワは、列強の支配下に置かれていたものの、芸術や文化を育む空気に満ちていました。言い方を換えれば、国家を失っている期間、人々が民族としての自覚を持ち続けるための支えとなっていたのが芸術や文化だったということです。  

一方、かつて「北のパリ」と呼ばれるほど栄えた都市であるワルシャワの人々は、自分たちの国を取り返したいという強い欲求を持ち続けていました。人々の独立への想いに火をつけたのが、フランス革命です。フランスでは、ナポレオン時代の後、ルイ十八世が民衆無視の王政を敷き、それは、跡を継いだ弟のシャルル十世の代になっても続いていました。民衆の怒りは頂点に達し、1830年、フランスで7月革命と呼ばれる革命が起きたのです。  

現代も同様ですが、一国で起きた革命は隣国にも大きな波を及ぼします。ベルギーはオランダ支配に対する反乱を経て独立を果たし、イタリアでは、失敗に終わるものの革命組織が立ち上がりました。そして、その波はワルシャワにも押し寄せました。  
ショパン博物館には生前ショパンが使用していたピアノも展示

この頃、ショパンは何をしていたのでしょうか。10代後半、音楽の才能を開花させていたショパン。その活躍がポーランド国内に収まるはずのないことは、周囲の人々にも明らかでした。ショパンは高校卒業後すぐ学友らとともにオーストリアのウィーンに赴いて2回の演奏会を行い、そこで聴衆から喝采を受けています。音楽家としての自らの将来になにがしかの手応えを感じていたことは確かでしょう。  

しかし、激動する社会情勢のなか、ショパンの心情も揺れ動いていました。周辺諸国に広がる不穏な空気ももちろん感じていたはずです。すでに音楽家としての道を歩み始めていたものの、まだ成功と呼べる状態ではなかったこの頃、ショパンが精神的に頼りにしていたのは、父親がワルシャワで始めた寄宿学校の学生のひとり、ティトゥス・ヴォイチェホフスキでした。早くからショパンの才能を見抜いていた彼は、ショパンの良き理解者でした。  

ショパンは、フランスで革命が起きた年の11月、意を決してウィーンへ旅立ちます。父親の心配もあり、逡巡するショパンのウィーン行きを決定づけたのは、ティトゥスが同行を決めたことだったようです。

後編はこちらから

 

主な参考文献
カラー版 作曲家の生涯 ショパン(著/遠山一行 新潮文庫 1988年)
もっと知りたいポーランド(編/宮島直機 弘文堂 1992年)
ポーランドを知るための60章(編著/渡辺克義 明石書店 2001年)
ショパン(作曲家 人と作品シリーズ)(著/小坂裕子 音楽之友社 2004年)
外務省「わかる!国際情勢〜ポーランドという国」