2013年12月30日更新

「WORLD旅のひろば」2014年1月号特集 華のフィレンツェ
メディチ家とルネサンスの都フィレンツェ(前編)


華の都フィレンツェは、メディチ家なくしては存在しなかった町といえるでしょう。パトロンとしてルネサンス芸術に寄与したメディチ家当主たち。主に老コジモ、その孫のロレンツォ、そしてコジモ一世に焦点を当てて、その人物像とパトロンとしての業績、ゆかりの建物や美術作品を紹介します。

メディチ家の歴史  

メディチ家はフィレンツェ北部のムジェッロ地方の出身だといわれています。その名から祖先は、医師または薬種商だったとされ、家紋の赤い球は丸薬だという説があります。もっともフィレンツェでは医師・薬種商組合に所属していたという記録は残っておらず、フィレンツェに出てくる以前の祖先の職業であったという見方が強いようです。  

メディチ家は12世紀後半には、すでにフィレンツェ中心部メルカート・ヴェッキオ(旧市場)に拠点を持ち、両替商(銀行)を営んでいたと記録されています。一族がフィレンツェで政治的、社会的躍進を果たしたのは14世紀前半ですが、旧来の有力門閥に比べると、新興の小さな存在でした。

フィレンツェは14世紀半ば以降、不況や飢饉、ペストに襲われます。こうした不幸はメディチ家の経済活動にも影響し、同時に彼らの無法な振る舞いと横暴さ、メディチ家一族間の不和や内紛によって殺人までを犯すほどの暴力的な一族という社会的イメージが定着した時代でもあります。  

この状況を一変させ、フィレンツェ市民の信頼を得て、その後数百年にわたるメディチ家繁栄の礎を築いたのが、ジョバンニ・ディ・ビッチ(1360〜1429年)でした。彼はイタリア各地にメディチ家の銀行商会(メディチ銀行)網を広げ、ローマ宮廷(教皇庁)を主要顧客として躍進させました。有力門閥間の争いにも絶妙なバランス感覚をもって対処しました。  
中世の商会は金融だけでなく、各種商品の輸出業も同時に行っていました。メディチ銀行商会も同様でした。工業原料や鉱物資源、毛織物や絹織物、工芸品、香辛料、農産物など扱う商品は多岐にわたっていたといいます。
 
メディチ家のフィレンツェ支配を確立させた老コジモ(ウフィツィ美術館所蔵)
寡頭政治を確立した老コジモ  

父ジョバンニが築いた財産と派閥人脈を受け継いだのが、長男コジモ・ディ・メディチ(=老コジモ、1389〜1464年)でした。メディチ銀行を任された老コジモは、父親以上の経営手腕を発揮し、ずば抜けた政治的才覚としたたかさをもって、メディチ家をヨーロッパ随一の大富豪へと導いたのです。巧みに反対派を封じ込め、私的な派閥を拡大することでその支配を安定させていきました。そして寡頭体制を確立してフィレンツェ共和国の政治的覇権を手中に納めたのです。老コジモから孫のロレンツォまでの3代が当主となった15世紀は、メディチ家にとっての絶頂期でした。  

老コジモは子どもの頃から人文学的な英才教育を受け、古典的教養を身につけていたとされます。人文学者の友人も多かったといいます。老コジモがその権力をほしいままにした1430〜60年は、初期ルネサンス芸術が花咲いた時代でした。文芸を好んだ老コジモは、人文学、建築、絵画や彫刻と幅広い芸術家らを支援するパトロンでした。  

パトロンとしての老コジモの活動のほんの一部を紹介すると、彫刻のギベルティ、ドナテッロ、絵画のパオロ・ウッチェロ、フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピら数々の美術家に作品を注文し、親しい友人関係を築いていました。さらに、人文学研究への援助として、古代ギリシャのアカデミアに倣った私的な学術サークル「プラトンアカデミー」を創設したり、古典文献の収集に力を注いだりしました。友人だったフィレンツェ最大の写本収集家ニッコロ・ニッコリの死後、彼の全蔵書800冊を借金の担保代わりに引き取り、サンマルコ修道院内に創設した図書館でこれら蔵書を市民へ公開しました。ヨーロッパ初の公共図書館の誕生です。
メディチ家の家族教会堂、サンロレンツォ教会

壮麗な建築群と絵画  

建築分野におけるパトロンとしての活動は、当時としては個人のレベルを超えた壮大なスケールで行われました。老コジモ自身が建築的素養を持ち、建築家らのよき助言者でもあったといいます。当時、教会などの宗教建築を支援することは、キリスト教では禁止されている高利貸しを生業にしていることに対するキリスト教徒としての贖罪であったといわれています。父ジョバンニが始めたサンロレンツォ教会の改築工事を引き継ぎ、初期ルネサンスを代表する建築家ブルネレスキに依頼して主祭堂と翼廊の諸礼拝堂を完成させ、老コジモの死後、新しい身廊部全体が完成しました。こうした改築の過程において、サンロレンツォ教会はメディチ家の家族教会堂となっていったのです。のちにミケランジェロは新聖具室を設計し、その装飾、メディチ家の当主だったヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォの墓碑をそれぞれ作製しています。

一方、老コジモは私邸の建築をメディチ家の権力と冨の誇示という政治的な意図にも利用しました。彼自身対立する有力門閥によってフィレンツェを追放されたことがあり、市民による妬みの恐ろしさを身をもって体験していました。
フィレンツェ最初のルネサンス様式建築、
メディチ・リカルディ宮殿
一方、老コジモは私邸の建築をメディチ家の権力と冨の誇示という政治的な意図にも利用しました。彼自身対立する有力門閥によってフィレンツェを追放されたことがあり、市民による妬みの恐ろしさを身をもって体験していました。そこで、当初、新しい邸宅(メディチ・リカルディ宮殿)の設計をブルネレスキに依頼したものの、彼の設計があまりにも豪華だったため、人々の妬みを恐れ、結局、ミケロッツォの質素な外観を持つ設計案を採用。1459〜60年頃にはほぼ完成し、これがフィレンツェ最初のルネサンス様式の邸宅建築となりました。同宮殿の絵画装飾は、貴族的な美的趣味を持っていた息子のピエロ(=痛風病みのピエロ、1416〜69年)の意向が反映されています。

後編に続く

主な参考文献
メディチ家(著/森田義之 講談社 1999年)
図説 メディチ家 古都フィレンツェと栄光の「王朝」(著/中嶋浩郎 河出書房新社 2004年)
イタリアものしり紀行(著/紅山雪夫 新潮社 2007年)