帰着しました。添乗員レポート

帰着しました。添乗員レポート

2022年01月31日

吉野ケ里遺跡から壱岐へ 玄界灘の考古学

<1/24発 添乗員:東京支店 中屋 雅之>

 この度、1月24日より「吉野ヶ里から壱岐へ 玄海灘の考古学」5日間に添乗員として同行させていただきました。このコースは福岡県から佐賀県、そして長崎県にかけての古代遺跡に焦点を当てたツアーで、各地で様々な遺跡や博物館そして古墳などを見学しました。
 特にこの地域は3世紀の「魏志倭人伝」に書かれた「一支国(いきこく)」、「奴国(なこく)」、「末盧国(まつろこく)」があった地域だと推定され、当時の遺跡が数多く発掘されています。同じ魏志倭人伝に書かれた「邪馬台国」については諸説あるものの、この近くにあったであろうとの説もあります。

ここが邪馬台国か?「吉野ケ里遺跡」


 その「邪馬台国」のものと言われる遺跡が「吉野ケ里遺跡」です。今では全国的に有名になった弥生時代の環濠集落ですが、3世紀頃の村の様子が忠実に再現され、特に「主祭殿」と呼ばれる3階建ての建物は2階が政治の部屋、3階が「先祖への祀り」が行われていたと考えられています。それぞれの部屋には人形が置かれ、当時の様子が再現されていましたが、神に祈る巫女の姿は邪馬台国の女王卑弥呼を彷彿とさせました。

吉野ケ里遺跡 物見櫓からの風景(中屋撮影)
主祭殿3階、「先祖への祈り」この巫女こそが卑弥呼か。(中屋撮影)

唐津郊外の「末盧国」

 2日目、3日目は唐津とその周辺の観光です。有名な観光地として唐津城や名護屋城などがありますが、ここでご注目いただきたいのは「末盧館」です。末盧館はその名前の通り、3世紀の魏志倭人伝に書かれた「末盧国」があった場所と言われています。末盧国は邪馬台国へと向かう陸の玄関口であったとされています。また、同じ敷地内にある「菜畑遺跡」は日本最古の稲作が行われた場所と言われています。紀元前5世紀の縄文後期、弥生時代に入る以前、既にこの地では稲作が行なわれていました。更に水稲だけでなくアワ、ソバ、ダイズ、麦も栽培され、家畜として豚が買われていたことが解っています。当時の人々の生活の様子を博物館の展示物や復元された水田と住居によって理解することができました。

菜畑遺跡の復元水田(中屋撮影)
縄文時代の竪穴式住居(中屋撮影)

壱岐の島は遺跡の宝庫

 3日目、私たちは唐津よりフェリーボートで壱岐の島へ渡りました。 
 壱岐の島は3世紀の魏志倭人伝では「一支国」と呼ばれ、弥生時代から古墳時代にかけての様々な遺跡が点在しています。また、島内には150以上の神社があり、島全体がパワースポットともいわれています。また、澄み切ったエメラルド・グリーンの海は沖縄にも引けを取らず、魚介類や壱岐牛など豊富なグルメでも最近話題となっています。 その中で今回は古代遺跡を中心に見学しました。一支国では本土よりやや遅れて6世紀~7世紀が古墳時代となります。島全体では300以上の古墳があると言われています。
 その中で私たちがまず訪れたのは「鬼の窟(おにのいわや)古墳」です。これは直径45メートル、高さ13.5メートルの円墳で、石室は前室・中室・玄室の三室と羨道分かれて、その長さは17メートルと県内最長です。通常、古墳はその内部には入ることができないのが多いのですが、この古墳は玄室まで入ることができます。石室の構造がどのようになっているのか、よく理解できました。
 次に訪れたのは「双六(そうろく)古墳」です。これは極めて大きな前方後円墳であり、全長91メートル、後円部の直径43メートル、高さ10メートルと堂々たるものです。古墳の上を歩き、石室の入口もご覧いただきました。ここに誰が埋葬されていたのかはわかっていませんが、これだけの規模の古墳を作るということはかなりの権力があったのでしょう。また、前方後円墳であるということは大和朝廷との関連も推定できます。
 3つ目の古墳は「掛木(かけぎ)」古墳。6世紀から7世紀頃築造された円墳です。もともと直径30メートルほどの規模の円墳でしたが、現在は周囲が削り取られて小さくなっています。ここも内部の石室に入ることができ、前室・中室・玄室の横穴式石室を実際にご覧いただくことができました。玄室には島内唯一のくり抜き式家形石棺がそのまま残っています。すぐ隣には古墳の資料館である「古墳館」があり、古墳に関しての解説がなされています。古墳の作り方なども理解できました。

県内最大の前方後円墳(中屋撮影)

掛木古墳:石室内部に入れます。(中屋撮影)

壱岐の島は「魏志倭人伝」に書かれた「一支国」

 魏志倭人伝に於いて「一支国」と書かれているのここ壱岐の島のことです。そして、その王都と特定されているのが「原の辻(はるのつじ)遺跡」です。女王・卑弥呼の邪馬台国と同時代に栄えていたと考えられています。ここは紀元前2世紀から紀元後4世紀頃にかけて形成された大規模な多重環濠集落です。佐賀県の吉野ケ里遺跡にもよく似た構造となっています。周辺には広大な平地が広がっており、現在の水田の中に「かつての港」を示すポールが立っていました。また、小高い丘の上には住居跡、物見櫓、穀物倉庫など様々な建物が復元されていました。
 この遺跡、及びその出土品は、日本遺産「国境の島 壱岐・対馬・五島〜古代からの架け橋〜」の構成要素となっています。 また、その遺跡については一支国博物館で詳しく見ることができます。博物館4階の「展望階」からは原の辻遺跡も遠望できました。

一支国博物館
原の辻遺跡

壱岐のモン・サン・ミッシェル : 小島神社

この壱岐にフランスのモン・サン・ミッシェルにそっくりな島があります。陸地と砂州で繋がったいわゆる陸繋島ですが、その砂州が現れるのは干潮の時間帯のみです。この日は午前10:18が干潮でしたので、それに合わせて私たちも訪問しました。1時間前に近くを通った時には道はなく、単なる島にしか見えませんでしたが、この時間帯には潮が引いて陸と島が繋がっていました。フジツボがぎっしりこびりついた岩を避けるように砂州を歩き、鳥居をくぐるといよいよ島に至ります。小さな島をぐるっと半周回り、反対側に出ると古びた階段があり、頂上にある神社の社まで上ることができました。自然が作り出す神秘的な風景がフォトジェニックで、人気の観光地となっています。しかし、島の全域が神域とされていますので、小枝一本も域外に持ち出すことはできません。また、潮が満ちてくると島から出られなくなるので注意が必要です。時々、帰れなくなる観光客もいるそうです。その場合は次の干潮まで6時間以上待たないといけませんのでご注意を!!

壱岐のモン・サン・ミッシェル、潮が引いて参道が現れました。(中屋撮影)

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