【国内】帰着しました。添乗員レポート

【国内】帰着しました。添乗員レポート
2020年12月21日
群馬再発見の旅
2020年11月21日~11月22日 2日間 添乗員:東京支店 鈴木洋
「群馬再発見の旅」より戻って参りました。群馬は関東にある県の一つですが、古墳時代には東国(現・関東)の中でも特に発展し、西の畿内を中心に発展したヤマト朝廷の誕生以後に建造されるようになった新たな墳墓の前方後円墳が多く建設されました。
9月30日に正式に国宝に指定された綿貫観音山古墳からは未盗掘の状態の石室が発見され3000点に及ぶ副葬品が発見されました。副葬品の中には大陸でも同型が出土している銅製の水瓶や獣帯鏡なども発見され、葬られた豪族の、外交への積極的な関わりが垣間見られます。畿内ではなく、なぜ群馬にこれほどの古墳が建設されたのかその謎に迫りました。
群馬県立歴史博物館 群馬県立歴史博物館 百済の武寧王陵からも同型の鏡が見つかっており、二つの地の交流を見ることが出来ます。

文字資料の無い「空白の古墳時代」に隆盛を誇った「古墳王国」群馬を訪ねる
群馬は重要な交通の要衝だったうえ、渡良瀬川や利根川という二つの水源があることから多くの作物や稲作が行われる豊かな土地でした。3世紀初頭から始まる古墳時代には朝鮮から渡ってきた渡来人も住み着き、群馬の発展に寄与したと言われます。
その後、5世紀に大陸より伝来したとみられる馬も群馬の豊かな自然環境を利用して飼育され、ヤマト朝廷に献上されました。このような重要な役割を担っていた群馬をヤマト朝廷が重要視し群馬各地の豪族と関係を深めていき、統治者が亡くなると、ヤマトとの関係を示す前方後円墳が次々と建立されました。それが、群馬が古墳王国と言われる所以です。
綿貫観音山古墳の頂上部に登るとまず、全長97mという大きさに驚きました。6世紀後半、つまり今から1500年も前にこれほどまでの墳墓と副葬品と共に葬られた支配者はどのような人物であったのか。また、当時日本の中心となっていたヤマトと群馬の関係はどのようなものだったのか、古墳に立ち、当時のことを考えているとロマンを掻き立てられます。





城下町小幡と群馬を代表する明治期の近代遺産を訪ねる
今回は古墳だけではなく、群馬の旧城下町・小幡の散策や明治期の遺産も訪問してまいりました。

小幡は織田信長の次男の信雄によって統治され、城下町として発展しました。現在、古い木造家屋がいくつか残るだけで、お城はなくなってしまいましたが、織田氏の造園した大名庭園「楽山園」は見事でした。池泉式の回遊式庭園があり、背後には紅葉した熊倉山が借景になっていて非常に美しかったです。その他、明治17年に建築され多くの皇族方も宿泊した木造迎賓館の臨江閣や、明治を代表する近代遺産の富岡製糸場の新名所で10月にオープンしたばかりの「西置繭所」を訪問してまいりました。養蚕から製糸、そして織物になるその過程を最新の方法を用いて展示しており非常に見ていて楽しかったです。




わずか1泊2日のなかで古墳時代から明治期までと約1500年の時空を超えて群馬を旅しました。近い場所にこれほど見どころのがある場所があったんだなと新しい発見をすることが出来ました。
この記事に関するキーワード
お気軽にお問い合わせください
電話相談はこちら
受付時間:午前9:30~午後5:30
- 東京
- 03-3501-4111
- 大阪
- 06-6343-0111
- 名古屋
- 052-252-2110
- 九州
- 092-473-0111
- 札幌
- 011-232-9111
- 藤沢
- 0466-27-0111