【国内】帰着しました。添乗員レポート

【国内】帰着しました。添乗員レポート
2021年06月22日
【帰着レポート】埼玉の国宝・歓喜院と
渋沢栄一ゆかりの深谷を訪ねて
2021年6月15日(火)~6月16日(水)2日間 東京支店 酒井康行
<6/15発・添乗員:東京支店 酒井康行>
大河ドラマ『晴天を衝け』で、今や時の人とも言うべき存在の渋沢栄一。「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、1840年に血洗島の豪農の家に生まれましたが、その血洗島というのが、現在の埼玉県深谷市にあります。このたびは、深谷を訪ねて渋沢栄一ゆかりの地を巡るとともに、妻沼聖天山の国宝・歓喜院を鑑賞したり、北浦和にある重要文化財の料亭「二木屋」にて「のざき牛」をいただいたりと、1泊2日ながらも充実した内容で、お客様をご案内して参りました。
「日本資本主義の父」渋沢栄一の故郷・深谷へ
1840年、豪農の家に生まれた渋沢は、ひょんなことから徳川慶喜に仕えます。1867年、慶喜の弟・昭武がパリ万博に派遣されることになると、慶喜から信頼を得た渋沢は、会計係・世話役として随行しました。パリ滞在中、昭武はイタリアやオランダなど周辺各国を巡歴。渋沢もそれに同行し、ヨーロッパ諸国の文明や文化に大いに刺激を受けました。日本に戻った渋沢は、大政奉還によって将軍から退いた主君・慶喜に付き従って静岡へと居を移しますが、明治新政府の首脳たちは渋沢の才能を見逃しませんでした。しかし、渋沢は新政府に出仕したものの、僅か数年で退官。以降は民間人として500社にも及ぶ企業の設立・経営・支援に関わっていきます。
民間に転じる直前、渋沢は活動の母胎となる第一国立銀行を設立。これを皮切りに次々と企業を興していきますが、短い役人時代に手がけた事業もあります。それが、1872年に群馬県に設立された官営富岡製糸場でした。政府が富岡製糸場を官営工場として設立した背景には、政府の2大スローガン「富国強兵」と「殖産興業」の牽引役として期待していたことが挙げられます。富岡製糸場は国家の威信を懸けた工場であったため、最新鋭の技術を駆使して建設されました。当時は珍しかった赤煉瓦がたくさん使われているのはそのためでした。
渋沢は富岡製糸場の建設に大きく関与しますが、翌年に政府と東京府(現・東京都)が共同で取り組む銀座煉瓦街の建設にも大きく関与しています。
銀座煉瓦街は1872年の大火をきっかけに建設されました。銀座や丸の内一帯を焼き尽くした大火は、発足したばかりの明治新政府に大打撃を与えました。すぐに明治新政府は銀座の復旧を開始します。純和風の家屋が建ち並んでいた銀座は、井上馨が主導して異国情緒を醸す煉瓦の街並みへと生まれ変わっていきました。井上の部下だった渋沢も銀座煉瓦街の建設に積極的に関わりました。
見た目が華やかな赤煉瓦の街並みを多くの人が目にし、それが端緒となって、それまでの木造に代わって多くの建物が煉瓦造りに建て替えられていきました。建物によって文明開化の意識は高まり、さらに生活全般に及んでいきました。
銀座煉瓦街の建設で大量の煉瓦が必要になると、現在の荒川区・足立区にあたるエリア一帯に工場が次々と誕生。それでも生産が追いつかず、渋沢は出生地・血洗島の隣村の上敷免に煉瓦製造工場を設立しました。この地を選んだのは、単に渋沢の縁故という理由だけではありません。上敷免は煉瓦に適した良質な土が採取出来ました。そのうえ、富岡製糸場にも銀座にも近いことから、供給地としては最適との判断があったのです。
工場は1887年に操業を開始しました。こうして、日本でも本格的な煉瓦生産が始まり、本格的な煉瓦建築の時代を迎えました。そして、この煉瓦建築時代を支えたのが、ほかならぬ鉄道だったのです。
上野―熊谷間で開業した日本鉄道は、3カ月後に本庄駅まで延伸します。そして熊谷駅と本庄駅の中間には深谷駅が開設されたのです。つまり、日本煉瓦製造の上敷免工場が操業を開始した時点で、既に深谷駅は開業していたのです。その後、増える需要に対応するべく、日本煉瓦製造は1895年に深谷駅から分岐して工場へと通じる専用線を建設。民間企業が敷設した専用線の国内第1号になったのです。
煉瓦建築と煉瓦製造は、日本の近代化に大きな役割を果たしました。しかし、関東大震災などを経て建築材料の主力はコンクリートなどに移り、時代とともに煉瓦の需要は減退。1975年に深谷駅と日本煉瓦製造の工場を結ぶ専用線は廃止され、現在は「あかね通り」という遊歩道となっています。そして、渋沢が立ち上げた日本煉瓦製造は2006年に解散という道を選びました。
それでも、深谷市は「煉瓦の街」であり続けています。東京駅が深谷市産の煉瓦を大量に用いている縁から、煉瓦の街をアピールする意味も込めて、深谷駅は1996年に東京駅を模したデザインへと改築されましたが、改築された深谷駅の外観は東京駅とそっくりになったものの、耐震基準の関係から煉瓦を使うことは叶いませんでした。そのため、深谷駅はタイル貼りになっています。
深谷駅前を煉瓦街へと生まれ変わらせようとする取り組みは、渋沢が顔になる新1万円札が発行される2024年までに間に合わせる予定で進んでいます。時代の波に揉まれながらも、深谷市の煉瓦に込める思いは微塵も揺らいでいないということです。









妻沼聖天山にて圧巻の国宝・歓喜院を鑑賞
妻沼聖天山は平家物語、源平盛衰記や謡曲実盛、歌舞伎実盛物語などに、武勇に優れた義理人情に厚い人柄が称えられている、斎藤別当実盛公が当地の庄司として、ご本尊聖天様を治承3年(1179年)にお祀りしたのに創まります。次いで実盛公の次男・斎藤実長が出家して阿請房良応となり、建久8年(1197年)に本坊の歓喜院を開創しました。
現在の歓喜院聖天堂は、享保20年(1735年)~宝暦10年(1760年)にかけて、林正清(林兵庫)及び正信らによって建立されました。これまで知られていた彫刻技術の高さに加え、修理の過程で明らかになった漆の使い分けなどの高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点を成す建物であること、またそのような建物の建設が民衆の力によって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されました。日光東照宮の創建から100年あまり後、装飾建築の成熟期となった時代に、棟梁の統率の下、東照宮の修復にも参加した職人たちによって、優れた技術が惜しみなくつぎ込まれた聖天堂は、「江戸時代建築の分水嶺」とも評価され、江戸後期装飾建築の代表例です。
聖天堂の保存修復工事には、7年間の歳月(平成15年10月1日から平成22年9月30日)と多くの費用が費やされました。聖天堂の装飾修復作業は、経験豊かな職人たちをもってしても困難を極めました。緻密な彫刻に施された漆塗彩色技法の数々。復元には気の遠くなるような多くの手間がかけられました。



重要文化財の料亭「二木屋」にて
名物の「のざき牛」に舌鼓
二木屋は、平成10年10月2日、小林家の古い家をそのままにして始まりました。この屋敷の主は、保守が大合同した自由民主党最初の内閣(1955年)の厚生大臣・小林栄三。昭和10年建築の軍人の家を戦中に疎開用として買取り、増築を経て今の形となりました。
懐かしい味、本物の味、日本の代表食材・和牛、家に伝わる味…お茶事の料理である“懐石”は敢えて名乗らず、楽しく集まって食べる“会席”を選んで、伝えるべき日本の味を常に模索しています。
それから20年。今では五節句の室礼と能楽をはじめとする日本文化の総合劇場として、「過去という未来」を創造し続けるようになりました。
小林家は毛利家の家老の家柄で、広島県尾道で林を名乗っていました。明治になり武家から商人に変わる時、小林と改名しましたが、先祖代々の林を屋号に残し、林が2つの木であるところから「二木屋」を名乗り、缶詰食品業を創業したのです。
そして、味付けはカツ子(英三の母)が担当しました。また、カツ子は料理研究家として講演や料理教室を行い、100年前のカツ子のレシピを英三は大切にし、今でも二木屋に残ります。
二木屋では日本料理に相性の良いステーキを探し、日本の名だたる牛肉を食べ、そして見つけたのが「のざき牛」です。甘く柔らかいステーキが、会席の最後を飾ります。このお肉との出会いは、生産者・野崎喜久雄さんとの出会いでした。通常のブランド牛は、松坂牛・米沢牛など、地域で認定を受けますが、実は野崎さんが日本で最初に個人名「のざき牛」を冠する許可を得た方です。野崎さん個人が作るお肉だから、全て責任を持ち、牛を育てられます。
良いお肉は何も飾りません。塩・胡椒も、油もニンニクもバターも全ての調味料を一切使わず、素焼きで勝負しています。




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