【国内】帰着しました。添乗員レポート

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2021年04月16日

【帰着レポート】情緒あふれる街 伊香保温泉の旅

2021年3月30日(火)~4月1日(木)3日間 東京支店 酒井康行

<3/30発・添乗員:東京支店 酒井康行>

 伊香保温泉は都心からも近いということもあり、気楽に訪ねることの出来る温泉街としてかねてより人気も高く、「黄金(こがね)の湯」と「白銀(しろがね)の湯」を目当てに、老若男女問わず、多数の観光客が訪れています。
 このたびは、2泊3日というコンパクトな日程で、「黄金の湯」と「白銀の湯」の両方に浸かることの出来るホテル「天坊」に宿泊して、古き良き温泉街・伊香保をご案内して参りました。

万葉集にも登場する伊香保温泉

 伊香保温泉の起源は、第11代垂仁天皇の時代に発見されたという説と、草津温泉と同じように行基によって見つけられたという説がありますが、いずれにせよ、7世紀よりも前の古墳時代に、二ツ岳が爆裂して伊香保温泉が湧出したとされ、万葉集にも既に伊香保にて温泉が湧き出ていると書かれています。
 もともと伊香保の温泉は、その色が特徴である「黄金の湯」だけでした。黄金の湯は湯の中に含まれる鉄分が酸化し、独特の茶褐色になるため、黄金の湯と呼ばれたのです。この湯は刺激の少ない柔らかい湯で、身体を芯から温めて血行を促すので特に女性には「子宝の湯」として喜ばれてきました。また、病気やケガの療養に良いということで、昔から湯治場として人気を博していました。
 一方、白銀の湯は近年湧出が確認され、豊富な湧出量を誇り、色が無色透明だったので「白銀の湯」と名づけられたのです。この湯は病後の回復や疲労回復、健康増進に良い湯として知られています。

飲泉所。伊香保温泉で唯一「黄金の湯」を飲泉できる施設です。
第二号源泉湧出口観覧所。伊香保の湧出口で唯一見学できる施設です。
「黄金の湯」ホテル天坊のホームページより
「白銀の湯」ホテル天坊のホームページより

伊香保のシンボル「石段街」を散策

 天正4年(1576年)、郷土であった木暮氏、千明(ちぎら)氏、岸氏、大島氏、島田氏、望月(永井)氏、後閑(ごかん)氏の七氏が湯元から現在地に集落を移し、伊香保の石段街は誕生しました。湯元から温泉を引き、石段を作り、中央に湯桶を伏せ左右に調整、区画された屋敷に湯を分けるという日本初の温泉リゾート都市計画です。
 今の石段は昭和55年から5年をかけて大改修されたもので、みかげ石が敷かれています。さらに2010年に石段を新設して、現在のように365段になりました。この石段には「温泉街が1年365日、賑わうようになって欲しい」という繁栄の願いが込められています。
 石段を挟んでお土産物屋や饅頭屋、遊戯場が並び、温泉情緒もたっぷりの佇まいで、観光客の旅情をそそります。また、疲れた足に嬉しい気軽に楽しむことが出来る足湯や、昔石段に使われていた石を敷石に使った石段の湯もあります。さらに周囲には伊香保を代表する観光地が並び、まさに伊香保のシンボル、それが石段街です。

伊香保温泉のシンボル「石段街」
石段街の最上部に位置する、上野国(こうずけのくに)三ノ宮として親しまれる由緒ある伊香保神社。
明治時代に日本駐在のハワイ国総領事で、大の日本贔屓であったロバートウォーカー・アルウィン氏が所有していた「ハワイ国公使の別荘」。
徳富蘆花記念文学館。明治の文豪・徳富蘆花の代表作である小説『不如帰(ほととぎす)』は伊香保で執筆されました。
徳富蘆花終焉の部屋。1927年に心臓発作で倒れ、電報で駆け付けた兄と再会したその夜に徳富蘆花は死去しました。
徳富蘆花の生涯に関する展示も充実しています。
石段街を見下ろします。
昔懐かしき射的場もあります。

芸術家を魅了した街・伊香保温泉
伊香保保科美術館と竹久夢二伊香保記念館へ

 伊香保保科美術館内は6つの展示室に分かれており、展示室ごとに、大正・昭和時代の芸術家・竹久夢二、小林かいち、昭和・平成時代の芸術家・友永詔三らの作品が展示されています。特に抒情を含む美人画で有名な大正ロマンの画家・竹久夢二(1884年~1934年)は伊香保を愛し、榛名山産業美術研究所建設を世に問うた芸術家です。竹久夢二の展示は、保科美術館開館を記念して特別に復刻を許された夢二代表作「女十題」(大正10年)等を展示しています。
 展示室の他に、広大な三国連山、谷川岳、小野子山(おのこやま)、武尊山(ほたかやま)、子持山、赤城山など、上州の山々と隣県栃木県の男体山、日光連山の風景をパノラマで見渡せる展望休憩室もお勧めです。

伊香保保科美術館
展望休憩室からの眺め

 ホテル天坊から徒歩約5分に位置する竹久夢二伊香保記念館。森の中には、夢二の代表作「黒船屋」の寄贈を受けて、その記念に建てた「夢二黒船館」や、美術館の機能を備えた日本建築として知られる「義山楼~日本昔硝子館~」などが佇みます。
 竹久夢二は、明治17年9月16日、岡山県に生まれました。明治38年、22歳の時、『中学世界』にコマ絵「筒井筒」が一等入選。以来、美人画で一世を風靡した「大正ロマン」を代表する画家です。
 夢二の最高傑作といわれる『黒船屋』を描いた大正8年、夢二は初めて伊香保を訪れます。以来、この地を度々訪れるようになりました。なぜ夢二は、伊香保・榛名をそれほどまでに愛したのでしょうか。
 上毛三山(榛名山・赤城山・妙義山)の中で、最も女性的な優しさを持つ榛名山。四季折々に美しく変化する雄大な榛名の山並みは、夢二の心を包み、その稜線に夢二は「山」と呼んだ彦乃(12歳年下の恋人で、結核で25歳という若さでこの世を去りました)の面影を重ねていたのかもしれません。

 

義山楼
「義山楼」の最大の特徴は、最初から美術館の機能を備えた日本建築であるということ。それは民芸風でもなく、数寄屋風でもなく、書院造りでもない、恐らく日本初の全く新しいスタイルの建物です。小さいですが新建材は一切使わず、使用した材料は、日本産の無垢の木材、和紙・漆・漆喰・金箔など、とにかく本物の日本にこだわって設計されています。館内には江戸・明治・大正の和ガラスが並び、ロマン溢れるしっとりとした美しさで見る人を魅了します。
夢二黒船館。外観は洋風ですが、寸法は尺寸法(和の寸法)を用い、材料を吟味し、手作りに徹底。内部の照明器具(ガラスシェード)は大正期などに作られたもので、和物が中心です。
調度品もアンティークで揃えてあり、出来るだけ外光を取り入れ、四季折々の変化や朝・昼・晩の時の移ろいを感じられるように設計されています。
夢二が活躍した時代、100年以上前に制作されたアンティークオルゴールを解説付きで鳴らしていただきました。
大正期につくられたピアノ、スタンウェイやベーゼンドルファーの演奏もお聞きいただきました。

榛名富士展望台と伊香保展望台「ときめきデッキ」
どちらの景色がお好きですか?

 自由時間を利用して、ご希望の方に、榛名富士展望台と伊香保展望台「ときめきデッキ」という2つの展望台へご案内しました。
 路線バスに揺られること約30分。榛名富士展望台へ向かうロープウェイ乗り場に到着。そして榛名湖を眼下にしながらあっという間に展望台に到着。美しい眺めを堪能したり榛名富士神社を参拝したりしてお過ごしいただきました。
 榛名山は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山のひとつであり、古来山岳信仰を受けてきた山で、山の南西麓には榛名神社が祀られています。
 山頂にはカルデラ湖である榛名湖と中央火口丘の榛名富士溶岩ドーム(標高1,390.3m)があります。495年頃と約30年後に大きな噴火をしたと見られており、中央のカルデラと榛名富士を最高峰の掃部ヶ岳(かもんがたけ、標高1,449m)、天目山(てんもくざん、1,303m)、尖った峰の相馬山(1,411m)、二ッ岳(ふたつだけ、1,344m)などが囲み、更に外側にも数多くの側火山があり、非常に多くの峰をもつ複雑な山容を見せています。
 榛名山に関係する伝承では、巨人ダイダラボッチが、富士山、浅間山、榛名山を競争で作り、あと一息というところで富士山の巨人ダイダラボッチが勝ったという民話、榛名神社が諏訪神社から井戸を通して食器を借りたという民話、弘法大師(空海)が杖を刺して井戸を掘ったという民話などが残っており、山岳信仰が盛んだったことが伺えます。

珍しい二連式のロープウェイ
眼下に榛名湖をのぞみます

 石段街から程近い伊香保ロープウェイ不如帰駅より、白亜のロープウェイにて見晴駅へ向かいました。ご案内した4月1日は夏季営業開始日初日にあたり、しかもその初便、09:00発にご案内、さらには新調したての新しいロープウェイということでしたので、ワールド航空のお客様が記念すべき最初のお客様だったというわけです。
 伊香保ロープウェイは、昭和37年に営業を開始し、温泉街の不如帰駅から標高955メートルの見晴駅までを4分間で結び、観光客の足として活躍しています。
 見晴駅到着後は山道を数分進んで展望台「ときめきデッキ」へ。こちらからは伊香保温泉の町並みはもとより、苗場方面、三国峠、佐ノ倉山2026m、万太郎山1954m、谷川岳1963m、小野子山、水上方面、武尊山2158m、子持山、浅間山1194m、二ツ岳(雌岳1317m、雄岳1345m)、榛名富士1390mなどを綺麗に見渡すことが出来ました。

目新しい白亜のロープウェイ
榛名山誕生の原因となった二ツ岳
伊香保の町並みの背後には苗場方面や谷川岳も見えます。

山の幸を堪能して参りました

 旅人の代名詞「松尾芭蕉」が活躍し、安定した世の中が庶民の旅の幕開けを告げる元禄時代(宝永年間1710年~1720年)に旅籠として創業した伊香保を代表する名旅館「横手館」や、100%国産の蕎麦粉にこだわった「木暮茶寮」にてお食事をご案内し、山の幸をふんだんにご堪能いただきました。

伊香保を代表する名旅館「横手館」
食前酒:梅酒、先付:アスパラ豆腐・独活・うるい・山葵・美味出汁、前菜:菜の花・にらピリ辛漬け・竹の子土佐まぶし・芽キャベツ・蕗の薹・鴨オレンジ煮、造里:上州刺身こんにゃく・酢味噌・新玉葱・大根と刻み大葉
煮物:大根・赤城鶏・ふき・トリュフあん

木暮茶寮にて名物の粗挽き蕎麦をいただきました。
伊香保名物の「舞茸の天婦羅」。その他には蕗の薹や南瓜、茄子もありました。

観世音とうどんで有名な水澤を訪問

 水澤観世音はおよそ1300年前、推古天皇・持統天皇の勅願により、高麗の高僧恵灌(えかん)僧正によって開基されました。東京・日光・善光寺、いずれへも三十六里という非常に重要な位置にある霊場で、歴代天皇の勅願寺として伝わっています。また、上野(こうずけ)の国司の菩提寺でもあり、坂東三十三観音霊場の十六番札所としても知られています。
 坂東三十三観音霊場は、今から約800年前の鎌倉時代初期に、源頼朝の厚い観音信仰により、戦いの後、人々の供養や永い平和への祈願など様々な熱い思いを込めて開かれたと云われています。
ご本尊は国司高野辺(たかのべ)家成公の三女・伊香保姫のご持仏であったと伝わる十一面千手観世音菩薩。霊験あたらたかなること、特に七難即滅七福即生のご利益が顕著です。
 開山当初は、御堂の数30余宇、御仏の数1200体にも及びましが、再三の火災により焼失しました。現在の建物は大永年間に仮堂を建立し、宝暦から天命に至る33ヶ年の大改築によって徳川幕府の祈願所として完成しました。

奥から、本堂(観音堂)、六角堂、十二支の守り本尊
参道となっている階段の上には仁王門が聳え建ちます

水澤観世音の駐車場では桜が満開でした

 また、水澤と言えば「うどん」が有名です。水澤うどんは「水澤観世音」の周辺を発祥とした名物料理で、お寺に参拝する人々が、旅の途中にお腹を満たせるようにという目的から提供が始められたと言われています。その歴史は大変に古く、今からおおよそ400年ほど前には、水澤うどんの原型が存在していたのだそうです。その美味しさ、こだわりから、秋田県の稲庭うどん、香川県の讃岐うどんと合わせて、日本三大うどんと称されています。

水澤うどん
水澤観世音の参拝道には、約4kmに渡ってうどん店がずらりと建ち並び、別名「水澤うどん街道」とも呼ばれています。

(おまけ)聖火リレーに遭遇しました

スポンサーの車が通ります
密にならないように工夫が施されていました
目の前を聖火ランナーが通りました

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