【国内】帰着しました。添乗員レポート

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2020年12月22日

鳥取因幡の傘踊りと三朝・倉吉の旅

2020年12月15日~12月18日 4日間 添乗員:東京支店 酒井 康行

<12/15発・添乗員 酒井康行>

2020年夏、コロナ禍で各地の祭りはやむを得ず中止を迫られました。そこでワールド航空サービスでは各地の皆様にお声をおかけし、祭りで披露されるお国自慢の踊りや音頭をプライベートで演じていただく特別な機会をツアーに組み込んだ「伝統芸能をプライベート鑑賞」シリーズを設定し、その第一弾として、因幡の傘踊りをお楽しみいただくツアーにご案内してまいりました。

ご旅行期間中は記録的降雪のために、鳥取空港に着陸できなかったり、バスにチェーンを装着しての走行になったりと、ご参加くださった皆様にはご協力いただきながらのご案内とはなりましたが、おかげさまで美しい白銀の世界も堪能でき、無事にご帰宅いただけました。

迫力ある鳥取「因幡の傘踊り」を鑑賞しました

因幡の傘踊りは、100個の小鈴を付け美しく彩った長柄の傘を使い、そろいの浴衣に手甲脚半、白鉢巻に白たすきの凛々しいいでたちで、唄に合わせて傘を回転させながら振り回す、真に勇壮で動きの激しい踊りです。全国でも珍しい独自の伝統芸能であり、昭和49年に「鳥取県無形民俗文化財」に指定されています。

踊り手は複数で、踊りの中には高低落差の変化をつけるため鶴亀の姿態ポーズが取り入れられています。鶴は高い姿勢であり、亀は低い姿勢となります。この踊りは剣舞をアレンジしたもので、長柄の傘を開いて、気合とともに斬り込みながら踊るのが基本となります。

徳川末期、因幡地方が大旱魃になり、田畑は干割れ、作物は枯草の様相となりました。この時、五郎作という老農夫が三日三晩冠笠を振り回して踊り、雨乞いの祈願をしたことが、傘踊りの起源といわれています。この祈願が天に通じたのか、三日目の夜、大雨が降り注ぎ、憂慮された大旱魃も一挙に解消し、大飢饉も免れたといいます。村民の喜びと感激は五郎作翁に集まったのですが、悲しいことに老翁は踊りの過労のため数日後帰らぬ人となってしまいました。村民は五郎作翁の霊を慰めたいと考え、その年の盂蘭盆(うらぼん)から老若男女を問わず五郎作翁が踊った時と同様に冠笠を手に踊り続けました。

その後、明治29年、日清戦争のほとぼり未だ覚めやらぬ頃、当時若者連中の間に賭博が流行して、心ある人々を嘆かせていました。若者連中の長としてこのことを心配していた国府町高岡の山本徳次郎は、何かこれに代わる健全な娯楽はないかと思案するうち、神主の持つ雨傘にヒントを得て、今までの冠笠を長い柄の傘に代え、自己が日頃たしなむ剣舞の型を取り入れて振り付けすれば、青年達が喜ぶ勇壮な踊りが作れるのではと考えました。それ以来、自宅にこもり懸命に踊りの研究を始めたのです。

しばらくして完成した長柄の傘踊りの勇壮活発な踊りに青年達は興奮し、彼の周りに集まり、傘作りと踊りの修練に没頭しました。その後、この踊りは地区の青年達に受け継がれ、「因幡の傘踊り」と言われるようになりました。国府町が「因幡の傘踊り発祥の地」といわれるのはこのような由来によります。
鳥取市ホームページより

そして本日皆様に踊りを披露してくださったのは「我龍天晴(がりょうてんせい)」というグループ。

毎年、お盆時期に行われる、鳥取市最大の祭り「鳥取しゃんしゃん祭り」で、120団体以上、4000人以上が一斉に踊る「しゃんしゃん傘踊り」。そのうちのひとつの団体として、経験豊富で実績のある踊り子たちが集結し2011年に、「おもしろ・おかしく・まじめに」誕生した深緑カラーの衣装をまとった民間団体、それが我龍天晴です。

我龍天晴の皆さん

結成当初から現在まで、しゃんしゃん傘踊りを通じて、縁が縁を結び、様々な催しに参加しているばかりか、様々なしゃんしゃん祭の賞を受け、さらには海外での公演も行っていらっしゃいます。

当日披露いただいたのは「きなんせ節」、「平成鳥取音頭」、「サスケのテーマ」、「しゃんしゃんしゃんぐりら」。古風な曲からモダンな曲まで、様々なジャンルの曲をご披露いただきましたが、踊った後の踊り子の息遣いからして、傘を激しく振り回しながら踊るというのは、相当大変なことがよくわかりました。

迫力ある傘踊りをご披露くださいました

白銀の世界を楽しんだ「若桜鉄道」と「若桜郷土文化の里

鳥取駅から郡家駅(こおげ)を経由し若桜駅まで、因美線と若桜鉄道の旅を楽しみました。

鳥取駅に停車する若桜号

若桜鉄道は、鳥取県で旧国鉄若桜線を引き継いで運営している鳥取県などが出資する第三セクター方式の鉄道会社です。

旧国鉄若桜線は、因美線郡家駅と若桜駅を結んだローカル線で、昭和5年12月に全通し、木材や木炭等の物資輸送や通勤通学の便として活躍しました。

若桜鉄道は、現在1日約15往復の運行で、青・赤・緑のレトロな雰囲気の車両が走っています。私たちが乗車したのは緑の「若桜号」。上品で美しい若桜グリーンの車両で、内装は木の温もりを感じます。

レトロな雰囲気の運転席.

車窓からは、時折、晴れ間も出て、美しい白銀の世界をご覧いただけ、また、途中駅の郡家駅では青の「昭和号」に、八頭駅では赤の「八頭号」とすれ違うこともできました。

いよいよ若桜駅に到着

若桜駅到着後は、若桜町の有名な観光スポットで、かつての城下町・宿場町の名残を感じられる「蔵通り」や「仮屋通り」を歩きました。「蔵通り」には約300メートルにわたって商屋の土蔵が連なり、「仮屋通り」は、家と道路との間にある幅1.2メートルほどのひさしのついた私道です。

ひさしつのついた仮屋通り

こういった工夫によって、豪雪地帯・若桜においてでも、雪や雨の日は傘をささずに通り抜けが出来たようです。また、かつては、この道が但馬(兵庫県北部)や播磨(兵庫県南西部)へと続く道だったようです。

続いてご案内したのは「若桜郷土文化の里」。里内にある三百田氏住宅は、もともと約200戸の大きな村・若桜町吉川にあった民家で、古くから庄屋をしていた家柄でした。間取りは、奥の間、納戸、座敷(広間)のある典型的な広間三間取で、因幡地方の17世紀の民家の特色がよくわかります。無動山永福寺の山門は、昭和56年に永福寺跡から三百田氏住宅隣に移転復元され、仁王像が見守っています。

若桜町歴史民俗資料館は、明治40年から昭和56年3月まで銀行として使われていた建物を移転復元したものです。この建物は明治時代の典型的な土蔵造りで豪商の面影を伝えており、当時銀行の威信にかけ銘木を駆使して斬新な設計で建てられました。

最後に、敷地入口にある「たくみの館」では、ガイドの門倉さんが『若桜小唄』(作詞:野口雨情、作曲:藤井清水)を披露してくださいました。

氷ノ山頂からの眺め

白壁赤瓦の土蔵が建ち並ぶ、横綱「琴櫻」の出身地・倉吉

倉吉は鳥取県中部に位置する約5万人弱の町で、周辺には関金温泉・三朝温泉・はわい温泉・東郷温泉の4つの温泉地に囲まれています。

倉吉という地名は「暮らし良し」という言葉にちなんでいるとも伝えられ、水と緑に恵まれたこの地は、かつて伯耆国の国庁が置かれ、古くから人の集まる中心地でした。

南北朝時代から室町時代にかけて田内城や打吹城が築かれ、山名氏の守護所が置かれました。そして打吹城の城下に広がったのが現在の倉吉の町の起こりです。

江戸時代の倉吉は商工業の中心として繁栄し、江戸時代中期以降に倉吉で特産品となったものとしては、「稲扱千歯」や「倉吉絣」が挙げられます。

さて、私たちは琴櫻顕彰碑と銅像から町歩き開始。倉吉出身の第53代横綱「琴櫻」(前佐渡ヶ嶽親方)は目の前にある成徳小学校出身で、今は観光案内所になっている場所にあった駄菓子屋でアルバイトをしていたそうです。

琴櫻関の銅像

赤瓦七号館にあたる元帥酒蔵(江戸時代末期、嘉永年間創業の老舗造り酒蔵)や旧日本産業貯蓄銀行倉吉支社(昭和6年建築の鉄筋コンクリート二階建ての建物。倉吉最初の本格的な西洋建築。現在は射的場)、桑田醤油醸造所(明治10年創業の老舗醤油屋は、歴史を感じさせる商家造りで、昔ながらの製法で、手間ひまかけて仕込まれた醤油が店内に並んでいます)、赤い灯籠が並ぶ大蓮寺へと続く小路「弁天参道」など、いずれも古き良き倉吉の雰囲気を今に伝える町並みを通り大蓮寺へ。

倉吉の元帥酒蔵

大蓮寺は、安土桃山時代、1573~1592年に善蓮社然誉上人文翁が近郊にあった大蓮寺の3寺を統合し、新たに現在地に建立・開山しました。モダンな本堂は1955年に再建した鉄筋コンクリート造りで、県内でも草分け的存在です。建武の武将脇屋義助や大阪の豪商淀屋清兵衛ゆかりの寺として有名です。

玉川沿いを歩いて倉吉を散策

玉川沿いを歩き、赤瓦一号館へ。ここは大正時代に建てられた醤油の仕込み蔵を改装したもので、天井の梁と束柱を格子状に組み合わせた五重構造の小屋組みは実に見事です。ここは物産館となっており、倉吉の名産品は全てそろっていましたので、お手洗い休憩を兼ねて立ち寄りました。

旅の疲れは三朝温泉で癒しました

三朝温泉には次のような発見物語が存在します。

850年以上も前の平安時代末期の1164年、源義朝の家臣、大久保左馬之が源氏の再興を祈願し、三徳山三仏寺に赴いた折に、年老いた白い狼に出会い、一度は弓で射ようとしますが、思いとどまり見逃してあげることに。その夜、左馬之祐の夢に妙見大菩薩が現れて、白い狼を助けたお礼に温泉の場所を教えてくれたのです。以後、救いのお湯として、村人たちの病を治したと伝わります。

明治以降、与謝野鉄幹、与謝野晶子、野口雨情、志賀直哉、斎藤茂吉、島崎藤村など多くの文人も訪れました。そして、2014年には三朝温泉開湯850年を迎えました。

温泉名の由来は諸説あり、そのひとつが「三つ目の朝を迎える頃には病が消える」ことから、三朝と呼ばれるようになったという謂れです。

さて、私たちは温泉街の主軸ともいえる三朝大橋を渡って「旅館大橋」へと向かいました。

旅館大橋の玄関

「旅館大橋」は、日本建築として最高のものをという一念を貫き、昭和7年に完成しました。現代では、到底手に入れることのできない、近郊各地の銘木を集め、そして、吟味を重ね、歳月に色褪せない伝統の風格を漂わせています。平成9年には国の登録有形文化財に指定されました。国登録有形文化財の指定になった箇所は、本館、離れ、西離れ、大広間、太鼓橋の5カ所であり、それらをすべて併せるとほぼ全域が文化財というのは、全国でも非常に貴重高い建物といわれています。

三朝温泉唯一のトリウム泉である「巌窟の湯」は、3つの湯船からそれぞれ温泉が自然噴出し(下の湯・中の湯)はラジウム泉、(上の湯)に関しては三朝温泉では旅館大橋だけが持つトリウム泉があります。そのトリウム泉が昭和23年に世界一の濃度という称号を受けたほどのお湯です。元々、三徳川に温泉が湧き出ていたものを、そのまま湯船に使用した、深い所もあれば浅い所もある「まさに川そのもの!」。それが名物「巌窟の湯」です。

夕食は大広間にていただきました。メニューは、蟹と芹の白和え・ふぐの唐揚げ、ふぐの土瓶蒸し、青利烏賊の刺身、のど黒塩焼き、鳥取和牛ステーキ、蟹と野沢菜の炊き込みご飯など、食も自慢の旅館大橋の絶品料理を、ゆっくりとご堪能いただけました。

お刺身(鳥取名産の烏賊)
のどぐろの塩焼き
鳥取和牛ステーキ
蟹と野沢菜の炊き込みご飯

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