歴史ある風景
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2021年07月06日
信州上田 “長いものには巻かれない?!”真田の胆力
本社 プランニング事業本部:乗田憲一
小学生の頃、「まんが日本の歴史」を夢中で読んでいました。なかでも真田幸村が大好きでした。知略を駆使し、大軍に少数で向かう姿、特に真田幸村が、徳川家康にあと一歩のところまで迫ったくだりは衝撃でした。もちろん歴史ですので解釈は様々。美しい部分ばかりではないと思います。ただ個人的には、「自分の信ずる道があり、それと違う絶対的な権力に、ただ従うのを良しとしない」そういう姿に憧れていました。
戦国時代、真田家の本拠だった長野県上田市。駅を降りると出迎えてくれるのは真田幸村像。後ろに真田の家紋「六文銭」が染め抜かれた旗指物。真田の城下町にきたな、と気分が盛り上がります。
道路標示や信号機の上、マンホールの蓋、原付バイクのナンバープレートにも、「六文銭」のデザインが。しなの鉄道の人気観光列車は「ろくもん」。とにかく「六文銭」だらけ。
さらに驚くのは、幸村の父・昌幸が上田城を築城したのが1583年、幸村の兄・信之が松代に転封されたのが1622年、真田の治世は、たった40年、真田が去って400年たつのに「真田の町」なのです。
真田家は武田、上杉、北条、徳川、織田、豊臣の超有力大名に囲まれた、信州の地方豪族。ひとつ選択を間違えば即滅ぼされる厳しい戦国の世を、賢く豪胆に、そしてしたたかに生き抜きました。徳川の攻撃を2度に渡って退けた城は、上田城だけ。そもそも「上杉から徳川を守る」という昌幸の口車に乗せられた徳川家康が、真田のために建てた上田城。しかし昌幸は築城後に徳川を裏切り上杉側へ。家康は怒り、約8000の軍勢で攻めました。迎え撃つ真田軍は約2000。数の優勢を過信した徳川軍は昌幸の知略に惨敗。そして関ヶ原の合戦。徳川秀忠軍約3万をわずか数千で撃退、秀忠は関ヶ原に1週間も遅れるという失態を招きます。
上田城は関ケ原後に廃城。藩主には、関ヶ原で父・昌幸、弟・幸村と袂を分かち徳川方へついた兄・信之が。城の再建は許されず、三の丸に館を建てました。信之が松代へと移った後も代々上田藩主の住まいとなりました。
現在、上田藩主館跡には、上田高校があります。旧藩邸のままに残る表御門、築地塀、濠は上田市文化財に指定。校門は「古城の門」と呼ばれ、生徒たちは朝晩、格式高い門をくぐって通学しています。生徒たちのジャージには誇らしげに六文銭が。校章ではないのだそう。400年経っても上田は真田の町なのだな、と痛感しました。
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