視察レポート

視察レポート

2021年03月05日

天空の宗教都市へ(高野山・和歌山)

松本佳晴

「ちょっと贅沢な紀の国 和歌山」
白浜の高級リゾートと初夏の高野山・熊野三山の旅

天空の宗教都市へ

高野山エリアの西の入り口で皆様を迎える「大門」。立派です。

 生来、信仰心がないせいか、「高野山金剛峯寺」の「山号」を最近まで「高野山」という山名だとばかり独り合点していた自分が今更ながら恥ずかしい。赤面の至りです。
 厳寒の2月上旬、実際に訪れてみて、「これは尋常ではない」、こんな海抜850mの山中に、夥しい数の寺院(かつては300以上、今でも117)が建ち並ぶ、東西5.5㎞、南北2.2㎞に広がる天空の宗教都市が1000年以上もの昔に造られたとは。
「真言宗教の根本道場を開きたい」、「国の安寧に人々の幸福を祈る一院を」と、空海が時の嵯峨天皇に上奏したのが平安初期の816年。空海42才の時(774年の生まれ)。この地は空海が、山岳修行に励んだ10代の若き頃、山部を歩き廻る中で発見した場所で、人々が通う道もなく、修業の場には相応しいと考えたのでした。勅許が下りると、鬱蒼たる原生林を切り開き、伽藍建設に心血を注いだ弘法大師空海ですが、その莫大な費用は、一体どのように調達し得たのか、、、それは、空海自らが紀伊の国の有力者に手紙を書き送り、「功績を積んで、ともに浄土へ」と説得して、篤い志を集めたとされています。この空海の志を継いだ多くの弟子達によって他に類を見ない世にも稀な秘境の宗教都市「高野山」は今も世界中からの人々を受け容れ続けています。

高野山公式ホームページはこちら↗

高野山公式ホームページから上の詳しい地図がダウンロードできます↗

真田昌幸(幸村の父)絶命の地、九度山(くどやま)から40分

真田昌幸の墓はここ真田庵に。(九度山)
真田庵の隣のそば処「幸村庵」でランチです。

 あの真田昌幸(幸村の父)が絶命した九度山(くどやま)の真田庵に別れを告げ、車で40分。カーブの多い山道を登り切り、視界が開けて見上げると、そこには巨大な朱色の大門が堂々たる姿を見せて迎えてくれた。ここから、広大な宗教都市が広がってゆく。その中心を成す「金剛峯寺」が、日本全国に建立された高野山真言宗3,600余りの寺院を統括する総本山。調べてみますと、都内だけでも、港区、渋谷区、世田谷区、墨田区など一等地に、高野山真言宗のお寺を10寺近く発見。改めてその巨大なパワーを思い知らされます。117の寺院(かつては300)を擁するこの高野山エリア全体がひとつの寺院であり、また境内であるという意味で「一山境内地」という言葉があります。

117の寺院で構成される高野山エリアの総本山「金剛峯寺」の堂々たる山門。
空海が1200年前に最初に開創した場所「壇上伽藍」の「金堂」。
弘仁7年(816年)から仁和3年(887年)頃に完成した「根本大塔」。
穏やかな「紀ノ川」の流れ。(九度山あたり)

INFINITO
インフィニート ホテル&スパ

 最終泊は「宿泊そのものが目的のひとつ」として、南紀白浜の丘上の高級リゾートINFINITO HOTEL&SPA(インフィニート ホテルアンドスパ)を選びました。
 目の前の太平洋から遠く四国まで見渡せる素晴らしい眺望は、海岸線のホテルには無い、このリゾートの特権でしょう。オーナーがイタリア好き、ヨット好きということで、パブリックスペースの主な家具は、イタリア製で様々なデコレーションにもヨットに因んだこだわりが、、、入り組んだリアス式の海岸の風景と共に、まるでイタリアのリグリア海辺りを旅している感覚が味わえます。夕食は、イタリアンと和食ふたつのレストランがありますが、ここは、勿論イタリアンを選択。スタッフの行き届いた対応と相まって、十分満足のゆくメニューでした。(ドリンクフィーが極めて良心的でびっくりでした。)
 ベテランの佐藤支配人と打ち合わせ。ワールドの上質な皆様には、オーシャンビューの客室を是非使っていただきたい、と支配人の方からの嬉しい提案に、このホテルとは良好な関係が築けるな、と直感。お客様も、きっと気持の良いご滞在になると確信できました。
 もうひとつのポイントが、プールのような温泉大浴場からの大絶景。露天風呂「空」と「海」からは、ご覧のような「太平洋の水平線インフィニティビュー」が存分に楽しめ、まさに至福の時間です。どうぞ、お楽しみに。

インフィニートホテルでは、佐藤支配人と入念に打ち合わせをしてきました。(2021年2月6日)
夜と朝で男女交代なのでこの両方のインフィニティビューが楽しめる露天風呂です。こちらは露天風呂「空」。
露天風呂「海」はこちら。
インフィニート正面玄関付近。
夜もロマンチックです。
目の前に太平洋と眼下には白浜が。
ガーデンレストラン「ジョヴァンニ」こちらが朝・夕食のメインダイニング(イタリアン)。

「空海」。長安での留学が礎に。

空海、後の弘法大師(774年〜835年、享年数え62歳)。
高野山開創の地「壇上伽藍」。

 「空」と「海」。まことに遠大なスケールの法名ですが、空海は774年の生まれ、俗名(本名)佐伯眞魚(まお、または、まな)。父は讃岐国屛風浦の郡司でした。平城京に上り、その後15才で論語、孝経などを学んだ後に18才で京の大学寮に入る。大学での勉学に飽き足らず、19才を過ぎた頃からは、山林での修行に入り、吉野の金峯山や四国の石鎚山などでの修業を重ね、幅広く仏教思想を学んでゆく。法名を「教海」、「如空」としていたが、どうも入唐直前の30才頃には「空海」と名乗った記録が残されています。空海はまったく無名の一沙門であったが、第18次遣唐使一行の長期留学僧として、804年、30才の時に唐に渡りました。空海は第1船に、すでに確固たる地位を築いていた最澄は第2船に、しかし、第3、第4船は遭難し、唐に辿り着いたのは第1船と第2船だけという、困難を極めたまさに命懸けの入唐行でした。
 福州の赤岸鎮に漂着した遣唐使一行、長安を目指し、805年2月に長安(西安)の西明寺に入り、ここが空海の滞在先となりました。仏教のみならず、貪欲に土木技術や薬学をはじめ、多分野を学んだ空海は、20年の留学予定を留学の滞在費がなくなったことを理由に上奏し、僅か2年で帰国の途に着いています。「虚しく住きて実ちて帰る」という空海の言葉は、2年とはいえ、いかに留学での成果が大きかったかを物語っています。
 予定を切り上げて、博多津(博多港)に帰国した空海でしたが、朝廷は対応に困り入京を許可せず、数年間の大宰府での滞在を余儀なくされています。そして、最澄の支援もあって、809年、ようやく入京に至った空海は、その7年後の816年6月に、時の嵯峨天皇に修禅の道場として高野山の下賜を請い、翌月に下賜勅許を賜わり、翌817年に弟子と共に高野山の開創に着手、土地を整備した上で、伽藍建立の着手はその2年後の春でした。
835年3月21日、享年62歳で逝去(病死)。弘法大師の諡号は後の921年、時の醍醐天皇から贈られています。

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