視察レポート
視察レポート
2021年02月22日
熊野古道 視察レポート(後編)
東京支店 酒井康行
先日は熊野古道自体の魅力をご紹介しましたが、本日は熊野古道を訪れるうえで拠点となる、さらに、その町自体に存在する魅力的な観光地や食事についてご紹介します。ツアーはもとより、個人旅行で行かれる際にもご参考にしていただければ幸いです。
和歌山県唯一の定期便が就航する南紀白浜
ジャイアントパンダを間近で見られる「アドベンチャーワールド」のためにあると言っても過言ではない南紀白浜空港。日本航空が毎日3便(現在は1便に減便中)羽田空港から就航しており、まさに和歌山の玄関口となっております。アドベンチャーワールドが有名なあまり、その他の観光地の影が薄いのですが、実は見どころ豊富なのが南紀白浜です。弊社の「熊野古道を歩く旅」でも南紀白浜から旅を始めますので、是非、ご着目ください。
また、南紀白浜では観光だけではなく、新鮮な魚介類や和歌山土産を購入出来る「とれとれ市場」にもお立ち寄りください。ツアーでは、南紀白浜空港に向かう直前に訪問しますので、お持ち帰りも可能ですし、勿論、郵送も可能です。
県庁所在地「和歌山」、特急「くろしお」で南紀白浜へ
和歌山県にある空港は南紀白浜ですが、実は県庁所在地の和歌山へは、関西国際空港からの方が近く、また、南紀白浜までは海岸線も走る特急「くろしお」で簡単にアクセスすることが出来ます。立派な天守を持つ和歌山城も見学出来ますし、和歌山ラーメンのお店もたくさんありますので、ちょっと立ち寄ってお気に入りのお店を探してみるのも良いでしょう。
和歌山城は、天正13年(1585年)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600年)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。そして、元和5年(1619年)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に来たことを実感させてくれます。天守閣に登れば、和歌山市街が見渡せ、紀ノ川がゆったり流れているのがよくわかります。
通常は「中華そば」と呼ばれる、和歌山のラーメン。スープの特徴から、次の3パターンに分類することができます。
一つは、醤油系。和歌山市内の中心部を走っていた路面電車の停車場に軒を並べていた屋台を発祥する味です。見た目は濃い茶色ですが、食べると意外とあっさりしているのが特徴で、現在の和歌山中華そばの主流です。
二つ目は、豚骨醤油系。コクのあるまろやかな豚骨スープと醤油が絶妙に絡み、奥行きの深さを感じることが出来ます。全国で「和歌山ラーメン」といえば、こちらの味を指すようです。
どちらの系統も、麺はストレートのやや紐麺で、具はチャーシュー、かまぼこ、メンマ、ネギと至ってシンプル。「中華そば」という呼び名にふさわしい、素朴な味わいです。
また、上記の2種類の範疇には入らない、新興勢力のラーメン店も和歌山には増えてきました。各店それぞれのこだわりを持った独特のラーメンを出しているので、地元で配布される「和歌山ラーメン味めぐりMAP」をお手元にして、1軒1軒その味を食べ歩いてください。
江戸時代に酢を使うことが始まり、熟成させる期間を短縮することが出来るようになったため、酢でしめた鯖の切り身と酢飯で発酵させずに寝かせたタイプのものが早寿司です。和歌山では中華そばと早寿司を一緒に食べる風習が根付いており、自由にとっていただくことが可能です。
和歌山駅から白浜駅までは特急列車「くろしお号」にて移動しました。乗車した7月23日は、で新たな「パンダくろしお」ラッピング列車が運行を開始する日であったようで(知らずに行きました!)、和歌山駅でのお見送りや白浜駅でのお迎えなど、大いに賑わっていました。車窓からは海や田園の景色を楽しめますので、移動も楽しかったです。
鬪雞神社で有名な紀伊田辺
鬪雞神社は、通称「権現さん」と呼ばれ、御祭神の中には、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)も勧請され、また、勝負の神様として御利益があるともいわれています。
鬪雞神社は、壇ノ浦合戦で源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が今に伝わる神社です。鬪雞神社の名の由来は、平家物語壇ノ浦合戦の故事によるもので、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当湛増(たんぞう)が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたことによるものです。境内の一角にはその様子を再現した湛増と弁慶像があります。
鬪雞神社は、2016年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録されました。
本州最南端に位置する串本と紀伊大島
串本は、紀伊山地を背に雄大な太平洋に突き出した本州最南端の町です。その先端に位置する本州最南端の地、潮岬は北緯33度26分、東経135度46分。これは、東京の八丈島とほぼ同緯度に位置します。
茫々たる太平洋に面し、東西に長く延びた海岸線はこの地方の特色であるリアス式海岸で、奇岩・怪石の雄大な自然美に恵まれ、吉野熊野国立公園の指定を受けています。
ダイナミックな自然に加え、串本はトルコとの繋がりが深い町です。
明治22年、オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット2世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣しました。巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名で、翌23年6月7日、横浜港に到着した際には熱狂的な歓迎を受けました。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就きました。
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかりました。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様でした。やがて、山のような波に揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されて樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていきました。この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘いましたが、絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。
この事故によりオスマン・パシャ特派大使海軍将校以下580余名が遭難しましたが、地元住民の献身的な救難活動により奇跡的に69名の命が救われました。
かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が建設されました。
串本を代表する見どころといえば橋杭岩。海中に約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っています。その規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付きました。
最後にご紹介するのが無量寺・串本応挙芦雪館。無量寺の境内に併設されている小さな美術館では、円山応挙(まるやまおうきょ)、長沢芦雪(ながさわろせつ)、伊藤若中等の作品を中心に、室町、桃山、江戸時代の絵画を展示しています。収蔵庫に収められている長沢芦雪の龍と虎の襖絵は、国の重要文化財に指定されています。
世界遺産 熊野古道を歩く旅【4日間】
かつて「蟻の熊野詣」と言われたほど多くの人が往来した中辺路の中でもハイライトや眺望の良いルートを選び、1日1か所の熊野三山の訪問と合わせて地元の語り部ガイドと共にじっくり歩きます。もちろん歩くだけではなく、日本三大瀑布に数えられる「那智の大滝」やかつての巨石信仰を感じさせる神倉神社、紀伊半島を代表する白浜の海岸沿いの見所なども訪ねます。また、全国でも珍しい川から源泉が湧く「川湯温泉」をはじめ、紀伊半島を代表する温泉地に3泊とも宿泊します。旅の疲れを癒しながら、熊野歩きを楽しみましょう。
出発日:4月6日(火) 、 4月13日(火) 、 5月12日(水)
旅行代金:¥195,000
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