歴史ある風景

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2021年10月19日

長崎街道を歩く 宿場町・塩田津

九州支店:柴尾祐樹

 

五街道と脇街道

徳川幕府2代将軍・秀忠によって定められた、江戸の日本橋を起点とする五街道。東海道や中山道をはじめとする五街道は、日本を往来する人々にとって非常に重要な幹線道路でした。一方地方の諸藩では、この五街道に続く脇街道(脇往還)が重要な生活路でした。江戸への参勤交代に従事する大名や武士をはじめ、商人や職人といった様々な人々が利用し、いわば日本経済を循環させる大動脈が、この五街道と脇街道です。

海外へとつながる道「長崎街道」

 江戸時代、様々ある街道のなかで唯一海外へつながる道がありました。それが「長崎街道」です。「鎖国」政策がとられた江戸時代、日本と海外を結ぶ窓口は松前・対馬・長崎・薩摩(琉球)の4カ所のみでした。小倉城下の常盤橋(現在の福岡県北九州市)を起点として長崎までを結ぶ長崎街道は、オランダ船や唐船が来航する出島はもちろんのこと、対馬藩の飛び地である田代(現在の佐賀県鳥栖市辺り)を経由して朝鮮へも通じていました。そんな外国船で運ばれてきた砂糖や反物類、蘇木などの輸入品が長崎街道から九州のみならず日本全国へ広がっていきました。

長崎街道は、肥前佐賀藩領の小田宿(佐賀県江北町)から長崎に至るまで複数のルート敷かれていました。これは、大村藩領を避けるためや塩田川が洪水になった時に迂回するためなど諸説あります。その一つである「多良道」の塩田津(佐賀県塩田町)には、今もなお風情のある町並みが残ります。

塩田津の町並み©佐賀県観光連盟提供

川港で栄えた商人と職人の町・塩田津

嬉野温泉の近くにある塩田津は、つい通り過ぎてしまいそうな小さな町です。しかし、車が走る498号線から旧塩田川沿いの道へ入れば、そこは長崎街道です。街道沿いには白壁の町並みが並びます。塩田津は、長崎街道と有明海の干満を利用した塩田川の川港によって栄えた商人の町でした。オランダ商館医師ケンペルをはじめ、長崎にやってきた蘭学者や西洋商人たちも江戸へ向かう道すがら塩田津を訪ねたのだとか。塩田津の川港には、米や塩、砂糖、石油、鉄といった様々な物資が集積され、江戸時代には大工や石工、鍛冶、菓子職人といった“職人があつまるまち”へと変貌を遂げます。今でも豪商の町屋や卸問屋跡が軒を連ね、町角に残る数々の商売繫盛の恵比寿像が当時の繁栄ぶりを感じさせます。また、遠くは天草の陶石を運びこんでいたという荷揚げ場跡や検量所跡が、数百年の時を超えて塩田の歴史を物語ります。

塩田津の町並み。かつて人やモノが行き交った長崎街道沿いに白壁の建物が並びます。
長崎街道から一本中へ入ると、本應寺(ほんのうじ)という浄土宗のお寺もあります。また、軒先に並ぶ白い植木鉢は、塩田津周辺で作られた志田焼です。
一部の建物では内部の見学も可能です。
昭和20年代、旧塩田川に面して建てられた塩田検量所跡。

 

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