歴史ある風景

歴史ある風景

2021年01月05日

「港」から読み解くと見えてくる、秀吉が、家康が、龍馬が何故、伏見を選んだのか

本社:プランニング事業本部 乗田憲一

伏見が京都と言ってもピンとこないかもしれません。実際、京都を旅して伏見を訪ねる方は少ないのではないでしょうか。

伏見稲荷や醍醐寺、東隣の宇治・平等院鳳凰堂、この辺りが観光ガイドで良く紹介されていると思います。でも伏見の面白さ、歴史上の重要度の高さは「港」から考えると見えてきます。もちろん内陸なので、さらにピンとこないかもしれません。

その昔、伏見には大きな巨椋池があり、これが桂川や宇治川、木津川などとつながり、それが淀川、そして大阪へと続いていたため、人や物資を運ぶのに適した立地でした。これに目を付け、発展させたのが豊臣秀吉。大阪城のイメージが強いですが、秀吉が最重要と捉えた場所は政治文化の中心・京と商業の中心・大阪を結ぶ伏見であり、彼の築いた伏見城は、日本史上に燦然と輝く桃山文化の最高峰であったと言われ、現存しないのが残念です。

江戸に中心が移った後も徳川家康は、高瀬川の掘削を初めとする運河の整備を進め、伏見は港町・宿場町として飛躍的な発展を遂げます。

人とモノの集積地となった伏見を舞台に、幕末維新の物語が綴られていきます。坂本龍馬もその一人。定宿であった寺田屋を訪ね、その前を流れる川を十石船で遊覧しながら志士たちに想いを馳せる、そんな旅の仕方もまた面白いかもしれません。

1933年以前の巨椋池
江戸時代の巨椋池(『都名所図会』1780年)
伏見を流れる濠川

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