2018年4月16日更新

李白と杜甫 唐詩とともに旅する中国

李白と杜甫–––。当時、ユーラシア大陸最高の文明国であった唐が最も栄えたときに現れたふたりは、詩の黄金時代を築き、やがて松尾芭蕉をはじめ日本文学にも大きな影響を与えることになります。今回の旅のエッセンスは、中国各地を流浪しながら詩を作り続けたふたりの軌跡から巡る、中国の魅力に迫ります。


対照的な性格と作風
李白と杜甫
中国の詩の歴史における最盛期が、7世紀の初めから300年続いた唐王朝です。日本も十数回にわたり遣唐使を派遣し、数多くの唐の文明を取り入れました。遣唐使として渡った阿倍仲麻呂は、唐の第九代皇帝玄宗の側近として登用され、李白や杜甫とも親交がありました。唐王朝で官吏としての人材を抜擢する試験(科挙)で重用されたのが詩です。当時、詩が作れることは知識人の証明であり、その世界観を通じて民衆に親しみを与える点でも重視されていました。

なかでも、その才能が群を抜いていたのが李白と杜甫。李白の「詩仙」に対して、杜甫は「詩聖」と呼ばれます。 杜甫の作品が「春望」の一節である「国破山河在――国破れて山河あり」に代表されるように、社会の現状を直視したリアリズム、才能がありながらも貧苦のうちに生涯を僻地での放浪に送る中でその時々の思いを詠ったのに対し、李白は同じく放浪の生活ながら極めて楽天的、シルクロードの交易で栄えた長安で酒に酔い、酒席で繰り返し詩を詠んで人々に覚えてもらったという逸話まであります。ふたりの性格の違いは、同じ放浪生活でも杜甫が洛陽東北の首陽山で迎えた妻を終生大切にしたのに対し、李白が4人の妻を置き去りにして各地で豪遊・散財を繰り返したというエピソードからもうかがうことができます。

もっとも、李白の詩集をつぶさに読むと、豪放磊落、自信に満ちたイメージとは裏腹に、挫折や愁いを抱えていた人物像も浮かび上がってきます。「白髪三千丈 縁愁似箇長――私の白髪は三千丈 憂愁の末にこんなにも長くなってしまった」という代表作はその典型でしょう。
昔ながらの佇まいが残る洛陽
天才が時を同じくして在世したばかりか、ふたりとも生涯の大半を広大な中国全土を放浪していたにもかかわらず、奇しくも出会って友情を築いたのは素晴らしい奇跡。李白と杜甫が出会ったのは、唐の副都だった洛陽、744年のことでした。

流浪の天才二人が出会った奇跡

そのとき李白は44歳。まさに旅に明け暮れる中での出会いでした。李白の足跡の及んだ地域を現在の中国の省でみると、当時蜀であった故郷の四川をはじめ、湖北、湖南、江西、山東、河南などとほぼ全域にわたります。青少年期、いわば修業時代を四川で過ごした李白が当時作った詩が「峨眉山に登る」です。峨眉山は古くから仙人が棲むとされる道教の名山、仏教では普賢菩薩の霊場として知られています。峨眉山に登った李白は仙人になりたいとの夢を詩で語りました。ただ、出世の糸口を求めた李白は故郷を捨てて長江を下り、江南へと向かいます。風光明媚な景色を自らの目で愛で、南京をはじめとする華麗な文化を足で歩いていたかもしれません。20代半ばでの結婚を機に安陸(湖北省)に一応の居住地を定めて10余年間を過ごしますが、その間も広く蘇州、杭州などにも足を延ばしていたようです。念願がついに叶い、皇帝の召され長安の宮廷に出仕したのが42歳のこと。才能が評価され、たちまち人気者になりました。ただ、長安での生活は足かけ3年。楊貴妃の機嫌を損じて玄宗が追放したとの伝説もありますが、実際は窮屈な朝廷の生活から解放され、再び自由に大空を羽ばたく思いだったのかもしれません。長安を出た旅先の洛陽で知り合ったのが杜甫でした。  一方、杜甫が李白に出会ったのは33歳のこと。すでに数々の秀作を発表した一流詩人で玄宗にも愛された李白と知り合った杜甫は、同じく先輩詩人の高適とともに2年間にわたり、河南、山東などを歴遊します。3人は酒屋に入り、飲み交わしては文学への思いを語り合ったといいます。気持ちが高揚すれば古跡に登って四方を眺めて歴史に思い馳せる–––。3人が登った古跡のひとつは今も開封(河南省)東南の郊外にあり、禹王台と呼ばれています。

李白を慕い続けた杜甫

李白と出会うまでの杜甫も各地への旅行を経ていましたが、自由人の李白に比べると官吏の試験のために父親の知友関係を辿った平穏なものでした。つまり、ふたりが出会ったとき、李白のほうはすでに詩人としての活動最盛期であったのに対し、杜甫はまだまだこれからだったわけです。仙人を目指したほどの李白の強烈な個性に杜甫は大きな影響を受けます。生涯李白を慕い続け、このような詩も詠んでいます。 南尋兎穴見李白 道甫問訊今何如 (あちらで兎穴をさがしあてて李白に会ったら、伝えてくれ、杜甫がどうしているんだいと言っていたと)
西安のシンボル・大雁塔
ただ、李白と別れたその後の杜甫は戦乱に巻き込まれ、さらに飢えに追われて西北の国境地帯へ、さらに西南へと流れていきます。その頃李白は、謀叛軍に参加した罪で僻地に流され、恩赦で刑を免除されますが、再び放浪の生活を続け、当塗県(安徽省)の長官をしていた李陽冰のもとで暮らして死を迎えます。最後は酒に酔い、水に映った月をすくおうとしておぼれ死んだというのは、浮世離れした李白ならではの伝説でしょう。

他方で、杜甫は科挙の試験を何度も受験しますが、浪人生活を余儀なくされ、社会的題材を取り上げて民衆に代わって詠うという詩人として名声をあげました。45歳でようやく任官したものの、安禄山の乱がおこり、長安の捕虜収容所に送り込まれてしまいます。前述の「春望」の詩は、この時期に作られたものです。そののち、職を捨てて妻子を連れて放浪の詩人として長期の旅に出た杜甫は成都(四川省)に辿り着きます。そして再び旅に出て、湖南省で59歳の寿命を終えました。


主な参考文献
■『李白と杜甫』(著/高島俊男 講談社 1997年)
■『唐詩の世界』(著/鈴木修次 日本放送出版協会 1990年)
■『杜甫の旅』(著/田川純三 新潮社 1993年)
■『李白の夢』(著/武部利男 筑摩書房 1982年)