青島の旧市街は、とてもそこが中国とは思えない、ある意味まことに奇妙な景観である。19世紀末から1930年代にかけて、主にドイツの租借時代に、現在私たちが目にする街の姿がほぼ造られた。その街の全容を俯瞰でつかみたくて、まず旧市街の東寄りに位置する小魚山へと向かった。足下に豊かな緑と赤い屋根の家々とのコントラストが、360度をぐるりと囲んでいる。まさに、それは、ドイツの地方都市といってもわからぬほどである。対峙する北側の丘の中腹には、堂々たる豪壮な邸宅(旧ドイツ総督邸。その後、毛沢東らが宿泊した迎賓館として使われた)が、緑の中に鎮座している。少し左に目を移すと、教会らしき建物(江蘇基督経堂)が、そしてもう少し左に2つの塔がそびえる全くのヨーロッパ教会建築(天主経堂)が、シンボリックに目に入ってくる。これらの周辺には、赤い屋根の民家がぎっしり、である。さらに左後方には、港湾開発区の林立する高層ビル群、そして青島湾に浮かぶ小青島(そもそも「青島」と呼ばれていたが、これを街の名を名にしたために、今では「小青島」と呼ばれている)の灯台を見渡すことができる。東側の足下には、ゆったりした弧を描く第1ビーチが広がり、背の高い白い建物がこの青島滞在の拠点となる「ダイナスティ匯泉王朝大酒店」である。
ここは、本当に中国なのだろうか。まことに立派な眺めである。そして驚いたことに、現中国政府は、この旧市街区の中に、違和感のあるモダンなデザインの新しい建築物を許していない。工事中の建物も、骨格はコンクリートだが、かつての洋風建築デザインで、最終的には、赤い屋根と黄色の壁で仕上げるのだそうだ。この青島ならではの独特の景観を後世に残し伝えたい、という美意識が、外国勢力統治の象徴的な眺めを取り壊したい、という主張に勝った結果となった。中国という国の、懐の深さとしたたかさを今さらながらに痛感する。
さて、この洋館の建ち並ぶ青島旧市街の街歩きを、3つの散策ルートを作ってご案内することにした。
街歩きルートその1 天主経堂ルート
旧ドイツ総督邸を訪ねてから、江蘇路基督経堂へ。ここからアメリカやドイツの旧邸宅の並ぶ沂水路をぶらぶら歩いて、旧ドイツ総督府へ。厳然とした重厚感いっぱいのドイツの建物で、1914年日本の統治が始まった時点で、ここは旧日本軍司令部となった。今は、青島の人民政府(市庁舎)である。その後、観海路を少し歩いて、完璧なヨーロッパ教会建築、天主経堂(カトリック教会)へ。これらの教会は、今でも日常的に、地元のキリスト教信者(近年、増加しています)に愛され、日曜日ともなると、老若男女が静かにミサに訪れ、堂内はいっぱいの人で、これにもまたびっくりであった。ここからなだらかな石畳の路を下ると、そこはメインストリートの中山路。さらに、古い歴史的な洋館が並ぶ広西路をそぞろ歩きしながら、海岸通り(太平路)まで、というルートは、かつての洋館に住み暮らす住民たちの息づかいも感じられて楽しい。
街歩きルートその2 八代関ルート
滞在ホテルの付近には、「八大関」と呼ばれる高級住宅街が広がる。かつての中国政府高官の屋敷や1920年代の日欧米の旧領事邸などか佇む閑静な一角である。8本の通りの名が、「嘉峪関路」、「函谷関路」など、「関」の名称であることから、ここ一帯を「八大関」と呼ぶようになった、という。 私たちはちょうど大磯や葉山のような海に近い山海関路をゆっくりと、かつての伊藤忠支社長宅(後年、葉剣英などの人民解放軍の元帥が宿泊したため、今は「元帥楼」と呼ばれている)などを眺めながら、当時は政府高官と外国人しか立ち入れなかった第2ビーチに沿って歩き、八大関で唯一開放されている、「花石楼」(元イギリス領事邸。ここには、後年、蒋介石夫妻がしばらく住み暮らしている)を訪ねる。1931年築で、内部は、蒋介石が暮らしていた当時そのままの様子で興味深い。ここから北へ上り、屋康関路を西へ戻りながら、デンマーク様式の公主楼の特徴的な館をカメラに収めて八大関賓館という国賓迎賓館まで、という簡単なルートを歩く。
街歩きルートその2 日本企業の拠点であった館陶路周辺ルート
最盛期には、なんと3万人を超える(今は約4000人)日本人が暮らした青島。その多くは、現在の青島碑酒工場の西側に集中して住んでいた。そして、1922年、青島返還後も、日本企業日本企業の進出は続いていく。1916年には、ほぼ日本の独占状態となった青島港での海運業に代わって、急成長したのは、綿紡績と製塩業であったが、特に綿紡績は、上海に次ぐ規模になった。かつての日本人居住区の西側のメインストリート館陶路には、当時の日本企業進出を見ることができる。日本大連汽船、三菱銀行、三井物産、横浜正金銀行、当時アジア最大といわれた証券取引所等の旧址が、そのままの姿で残っている。多くが三井幸次郎などの日本人設計によるヨーロッパ風建築で、少し前までの日本の銀行も、このスタイルが多かったので、ご想像いただけると思う。
もちろん今では、中国企業や銀行として、取り壊さずに使われているが、これも何か懐かしいようなうれしい思いがする。ここは、日本時代は、葉桜町と呼ばれていたので、ひょっとするとご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。東京の大手町といったところだろうか。
館陶路の散策をしながら、そのまま南下すると、そこはもう海岸に近い中山路に通りの名が変わるが、一本道なので迷子になることはない。桟橋まで出て海上から旧市街に海岸通りに並木道と、その向こうに並ぶ歴史的建築を眺めるのもまたよい。
いずれの散策も無理のないルートで作りました。それぞれに個性があって、4月、5月はきっと初夏のさわやかな海風を胸いっぱいに吸い込みながらの気分の良いひとときなることでしょう。 |